羽化登仙


安原家にて催された夜会からの帰りの車中、千家はずっと京一郎の肩に凭れて目を閉じていた。
昨今の戦争特需によって景気が上がった所為で、ここのところ彼方此方の屋敷で盛大な宴が開かれている。
当然、子爵家当主であり軍の実力者でもある千家のもとにも毎日のように招待状が届いていた。
千家自身はどれもあまり気乗りしない様子だったが、分母が増すのに比例して断れない件も増えたらしく、かなり頻繁に顔を出さざるを得ない状況になっている。
そして千家は常に京一郎を連れて歩くので、京一郎もまた決して得意ではない賑やかな酒宴の場へと強制的に参加させられる日が続いているのだった。
しかし、ここに来て流石の千家も相当疲労が溜まってきたらしい。
珍しく自棄になったのか、それとも体調不良を誤魔化そうとでもしたのか、 とにかく今宵の千家は煩わしい時間をどうにか遣り過ごす為にアルコォルの力を多大に借りることにしたようだった。
要するに千家は些か飲み過ぎたのである。
車に乗るなりこちらに身体を預け、目を閉じてしまった千家の顔を京一郎はここぞとばかりにまじまじと見つめた。
相も変わらぬ白磁の頬は透けるように美しく、到底酔っているようには見受けられない。
酔えばしっかり顔色に出てしまう京一郎にとっては、羨ましい限りだった。
そういえば千家が自邸で酒を口にするところをあまり見たことがないが、もしかすると苦手なのだろうか。
普段は暴君宜しく傲岸不遜を地で行く男だが、思いの外子ども染みたところがあるから可能性としては考えられなくもない。
そう思うと途端に、こうして肩に頬を押し付けて眠る姿まで意外なほどに可愛らしく感じられてくるのだから我ながらどうかしている。
一瞬、肩を抱いて子守唄でも歌ってやろうかと考えたが、そんなことをすればさぞかし腹を立てるだろうと想像して苦笑した。
仕方なく京一郎は自分の腕に掛かった千家の長い髪を、ほんの少し指先に絡め取るだけで我慢する。
その間、千家は身じろぎひとつせずにいたが、本気で眠っていたわけではないらしい。
その証拠に屋敷の前に着いて京一郎が少し身体を揺すると、千家はすぐに目を開けた。
「伊織、着きましたよ」
「……」
千家は億劫そうに身体を起こす。
それから運転手がドアを開けて車を下りるも、まだ足元はふらついているようだった。
「大丈夫ですか?」
「……肩を貸せ、京一郎」
「はいはい」
言われた通り、肩を貸す。
酔っても変わらぬ尊大な態度に、ほんの僅かでも可愛らしいなどと考えた己が馬鹿だったのだと悟り、京一郎はこっそり溜息をついた。

「……よい、しょっと」
ようやく千家の私室に辿り着くと、京一郎は千家を寝台に放り投げるようにして下ろす。
仰向けに倒れ込んだ千家の重みで、寝台が僅かに揺れて軋んだ。
さて、これからどうするべきだろうか。
水でも飲ませてやるのが先か、否、それよりもこの如何にも高級そうな燕尾服を脱がせてやるのが先だろう。
そう考えて伸ばした京一郎の手はあっさり千家に捕らえられ、そのまま強く引き寄せられた。
「うわっ……!」
勢い京一郎はバランスを崩し、千家の上に被さるようにして倒れてしまう。
京一郎は驚き、慌てた。
「い、いきなり何をするんですか! 服が皺になりますよ!」
「どうでもいい」
「ですが」
「いいから、おとなしくしろ」
京一郎の心配などまったく相手にもせず、千家は京一郎の身体を抱き締めて離さない。
京一郎は千家の白いシャツの胸に頬を押し付けるようにしながら、ただ黙って言うなりになるしかなかった。
「……飲みすぎですよ」
「ああ」
生返事をしながら、千家は京一郎の彼方此方を弄ぶ。
髪を掬ったり、耳朶を揉んだり、頬を撫でたりと擽ったくて仕方が無い。
この人は、いったい私をなんだと思っているのだろう?
そんな疑念を抱きながらも千家の指先の感触は酷く心地好く、酒で上がった体温の所為もあってか京一郎は奇妙な浮遊感の中を漂いはじめていた。
今夜は月明かりも無く、屋敷の中も外も既にしんと静まり返っている。
耳元に千家の規則的な鼓動が微かに聞こえてきて思わずうとうとしかけると、瞼の裏に今日の夜会の光景が蘇ってきた。
眩いシャンデリアの下、光を反射するグラス、流れる円舞曲、煌びやかな衣装に身を包んだ―――。
「……安原様の御令嬢、お綺麗な方でしたね」
静かな戯れの中、不意に口から零れた言葉には拗ねたような響きがあったかもしれない。
紹介されたのだ。
無論、京一郎にではなく千家に。
二人が会場に着くなり飛んできた主は挨拶もそこそこに自身の娘を紹介すると、なんとか千家の興味を引くべく必死で娘の売込みを始めた。
彼女自身も満更では無い様子で頬を染めながら千家の反応を伺っていたが、当の千家はといえばあくまで柔和な態度を崩さずに、 しかしながら巧みに話題を変えてその件を躱してしまったのだった。
その一連の流れを傍で見ていた京一郎の中に、幾つもの感情が渦巻く。
同情、嫉妬、僻み、安堵、諦念。
厄介極まりないそれらから上手く目を逸らしたつもりでいたけれど、帰宅して気が緩んだのだろうか。
京一郎の唐突な呟きに、千家はくすりと笑った。
「ほう。お前はああいうのが好みだったか」
「好みとかではなく、一般的な目線で申し上げたつもりです」
「同じことだろう。ならば、私の代わりにお前を薦めておくべきだったかもしれんな」
「な、なにを……」
冗談では無い。
今更、妻など娶ることが出来るものか。
それとも、私がそうなってもいいのだろうか?
「……」
尋ねてみたい衝動に駆られたが、黙る。
愚問だと切り捨てられるのは目に見えていたからだ。
だから、代わりに言ってやった。
「貴方こそ、ああいう方がお好きなのでは?」
華やかで、気品があって、美しくて、千家の隣りに立てばさぞかし相応しく映ることだろう。
しかし千家がどのような女性が好みであるかなど、はっきり言って京一郎にはまったく興味が無かった。
だから肯定されようと否定されようとどうでもいい程度の軽口のつもりだったというのに、しかし千家は黙ったまま、ただ京一郎の髪を撫で続けている。
そうしてだいぶ経ってから、ようやくぽつりと呟いた。
「……お前のほうがいい」
それを聞いたとき、京一郎は己の心臓が止まるかと思った。
しかし千家の胸から聞こえてくる鼓動は相変わらず少しの乱れもなく、自分だけが動揺しているのが分かって悔しくて堪らない。
部屋は暗く、恐らくは赤くなっている顔を千家に見られていないことだけが幸いだった。
「……酔っているんですね」
「そうだな」
同意して、ふふと笑う。
そうだ。
いつもの戯言にしておけばいい。
そうでなければ、こちらまでおかしくなってしまう。
「……そ、そもそも私と比べるのは、あの方に余りにも失礼ではありませんか」
「何故だ?」
「だって、私は男ですよ? 幾らなんでも比較の対象にすべきではありません」
「そうか」
動揺を誤魔化すために喋り続ける京一郎の頬を、千家が撫でる。
「しかし、女は本性を隠すことに関しては男よりも余程長けているからな。腹の底では何を考えているか知れん」
「……私だって、貴方の想像もつかないようなことを考えているかもしれませんよ?」
「なるほど、もっともだ」
くすくすと笑いながら、今度は京一郎の唇をなぞる。
ゆっくり、幾度も往復する指先に促されて、やがて京一郎は緩く口を開けた。
軽く食んだ指先は剣を握る者とは思えぬほどに繊細で、千家の美貌はこんなところにまで行き届いているのだなと妙な感心をしてしまう。
「ん……」
舌を差し出すと、指が更に奥へと入ってきた。
踊るように蠢く指に舌を絡めると、それはまるで口淫を思い起こさせてつい身体が熱くなる。
もっと、欲しい。
京一郎は自ら千家の手を取り、もう一本を口に含む。
次第に恍惚としてきた京一郎に、千家は言った。
「……女を抱きたいと思うことがあるか?」
「……!」
意地の悪い問い掛けに、京一郎は我に返る。
上目遣いに千家を見ると、彼は確かに笑っていた。
答えなど分かっているくせに、わざと尋ねているのだ。
だから、再び同じように返してやった。
「……貴方こそ私のような男ではなく、華奢で美しい女性を抱きたいのではないのですか?」
半ば不貞腐れて口にした厭味に、今度の千家は即答する。
「私はお前がいい」
京一郎の顔が更に熱くなる。
どうしてこの人はこうなのだろう。
悔しい。
悔しくて、悔しくて、堪らない。
「……酔っ払いの戯言と聞き流しておきましょう」
あしらってもただ笑うだけの千家に引き寄せられ、唇を重ねた。
もう、いい。
どうせこの人には勝てないのだから。
交わすくちづけはいつもよりずっと甘く、京一郎は諦めて己も今宵の美酒に酔ってしまうことに決めた。

- end -

2013.08.04


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