特別な日
緋色のカァテンを細く開け、曇った窓硝子を指先で拭う。
曇りは水滴となって流れたものの、未だ滲んで歪んだ視界の向こうには、それでもちらちらと降りだした雪が夜の庭をうっすらと白く染め始めているのが見えた。
(―――どうりで冷えるはずだ)
暖炉の火は赤々と燃え盛っているが、部屋の隅々までを暖めてくれるほどではない。
そこから少し離れた窓辺に立っていた京一郎は小さく項垂れて、溜息を吐いた。
「何を憂いている?」
その溜息を耳聡く聞きつけた千家に問われ、京一郎は思わずもう一度溜息を吐きたくなるのを堪えて答える。
「何も憂いてなどいませんが」
「嘘をつくのが不得手だという自覚は?」
「……っ」
京一郎はしばしばこの聡くて鈍い男がたまらなく憎らしくなる。
その不快感を眼差しに込めてみるも、当の千家は暖炉傍の長椅子に座って本を開いたまま、こちらを見ようとする気配もない。
窓硝子は再び曇って、外はもう見えなくなっていた。
今日は京一郎の誕生日なのだ。
とはいえ取り立てて何かがあったわけではない。
形ばかりの宮中祭祀の為に千家の供として参内したほかは、いつも通りにこの屋敷内で千家と二人ただ静かに過ごしていた。
本を読み、食事を取り、言葉を交わし、戯れに触れ合って。
そもそもが千家は今日が何の日であるかなど知る由もなかったし、今の京一郎にとっては彼の傍で穏やかな時を過ごすことが唯一にして最も肝要な望みでもあったから、そのこと自体に不満は無かった。
しかし日が暮れて夜の帳が落ちる頃になると知らずに胸の内が昏く、小さな石でも飲み込んだように重苦しくなってきたのだった。
そうなってみれば、つくづく先々月の己は愚かであったことに気付く。
何故、誕生日だったことを教えてくれなかったのだと腹を立て、散々千家を責めたけれど、そもそもこういったことは自ら申し出るようなものではないではないか。
ましてや端からそんなものに興味の無い千家が主張してくるはずもなかった。
そう頭では理解出来ても、矢張り何処か蟠りを覚えてしまうのは若さゆえの未熟さからくるものなのだろうか。
桃木村にいたころは、家族の誕生日は必ず皆で祝っていたことまで思い出してしまう始末。
京一郎とて千家から祝いの品や言葉が欲しいわけではない。
そんな柄にも無いものは期待していない。
ただ、ほんの少し。
ほんの少しだけ、いつもとは違う特別な日にしたかっただけだ。
(―――よし)
いつまでも愚図愚図と思い悩むのは性に合わない。
京一郎は勢い任せに千家を振り返ると、足早に彼の傍へと歩み寄りながら言った。
「ねぇ、伊織」
「なんだ」
「たまには私の趣味につきあってはくださいませんか?」
「……お前の趣味だと?」
漸く千家の視線が手元の本の頁を離れて、こちらへと向けられる。
それだけで僅かな満足感を得ながら、京一郎は無邪気を装ってにっこりと微笑んでみせた。
「ええ。今夜は日本茶にしましょうよ。お茶は私が淹れてきますから」
夕食後のこの時刻、そろそろ家令が紅茶を運んでくる頃合いだった。
洋式の生活にもだいぶ慣れはしたけれど、矢張り京一郎にとって日本式のほうが落ち着くことには変わりない。
少し前から自分用に買った煎茶と焙茶を厨房に置いてもらい、千家がいないときに時折飲んでいたのだ。
そういえば煎餅もまだ少し残っていたっけ。
早く食べなければ湿気てしまうから、それも出してしまおう。
しかし京一郎の提案に千家はあからさまに眉を顰めると、素気無くそれを突き返した。
「いらん」
「どうしてですか」
「好みでない」
「たまにはいいじゃありませんか。日本茶にお煎餅、美味しいですよ?」
「お前は好きにするがいい。止めはしない」
「……」
京一郎は言葉を失った。
それは、そうだろう。
千家にそこまでの権利はない。
けれど、そうではないのだ。
今日だけは、そんな風に過ごしたくない。
「……どうしても、駄目ですか」
縋る想いで尋ねても、千家はにべもなかった。
「くどい」
ただ、一言だけ。
再び本に目を落としながら、もうこちらを見ることもなく千家は言った。
その冷たさに京一郎はきゅっと唇をかんで、踵を返す。
「分かりました。私は好きにさせて頂きます」
そのまま部屋を出ようと扉へ向かう。
取っ手を引き、扉を開け、部屋の外へ一歩踏み出したところで未練がましく肩越しに振り返ってみるも、千家は背中を向けたまま微動だにしない。
「……今日ぐらい、つきあってくれてもいいのに」
無性に悲しくなって、みっともないと知りつつも恨み言が零れた。
別になんでも良かったのだ。
ただ特別な記憶が欲しかった。
普段とは違う、ずっと後で思い返してみたときにほんのりと心が温かくなるような、そんな光景が欲しかっただけだ。
けれど千家が相手では、それすらも過ぎた望みだったのだろう。
情の無い人だとは微塵も思っていないが、他人に阿たり、迎合したりするようなことはしない人だ。
それでも、なんとなく自分の頼みならば聞いてくれるかもしれないと無意識に己惚れていたのかもしれない。
そうだとしたら堪らなく恥ずかしい、情けない。
(……馬鹿みたいだ)
自嘲気味に笑いながら京一郎が後ろ手に扉を閉めようとしたところで、しかし思いがけず千家が長椅子から立ち上がった。
「待て」
「……?」
戸惑いながら足を止めた京一郎に、今度は千家のほうが歩み寄ってくる。
唐突に腕を掴まれ、その痛みに京一郎は千家を睨みつけた。
「なっ……なんなんですか、いきなり?!」
「今日ぐらい、とはどういう意味だ?」
「は……? べ、別に意味なんて……」
「お前の嘘はすぐに分かる。いいから、言え」
「……」
「京一郎」
千家は本当に狡い。
こちらのことなどどうでもいいような態度を取っておきながら、不意に生じたどれほど僅かな隙も見逃してはくれないのだ。
たとえ無理矢理にこの手を振り解こうとしても、それはきっと無駄な足掻きで終わる。
それに……正直に言えば、千家があの呟きを捨て置かないでくれたことが嬉しかった。
だから京一郎は観念して口を開いた。
「……今日は、私の誕生日だったものですから」
気まずさゆえに視線は逸らしたままだったから、京一郎は千家が僅かに目を見張った瞬間を見ることは出来なかった。
けれど、その声色で千家が機嫌を損ねたことにはすぐに気がついた。
「……何故、もっと早く言わなかった」
その責めるような口調に、京一郎は憤慨する。
「あ、貴方だって教えてくれなかったじゃないか!」
「だから、なんだ。意趣返しのつもりか?」
「そんなわけないでしょう。そもそも、どうして貴方が……」
そこまで言って、はたと気づく。
千家は怒っているのか?
だとしたら、何故?
「あの……伊織?」
「なんだ」
「もしかして……怒ったんですか?」
「……」
千家はふんと鼻を鳴らして京一郎の腕を離すと、また長椅子へと戻ってしまう。
図星を指されると無言になるのはお約束だ。
それにしても千家が本当に怒っているのならば、あの日の京一郎の気持ちが少しは分かったということだろうか。
誕生日だと事前に知っていたなら、何か準備出来たかもしれないのに。
ささやかにでも互いが今目の前にいる奇跡を祝うことが出来たかもしれないのに、と。
もしそうなのだとしたら、もうそれだけで充分だ。
自分の誕生日にすら興味のなかった千家が、そんな風に思ってくれたのだとしたらそれだけで。
「……私の分も淹れてこい」
「え……?」
「つきあえばいいのだろう。お前の趣味とやらに」
千家からの予想外の譲歩に、京一郎の顔がぱあっと明るくなる。
それによって京一郎の胸のつかえは一瞬にして霧散したが、矢張り千家は釘を刺すことも忘れなかった。
「だが、煎餅は食べないからな」
しかし、こうなってしまえばこっちのものだ。
もう怖いものはないとばかりに京一郎は捲し立てる。
「まあ、そう仰らずに! 大丈夫ですよ、本当に美味しいですから」
「……京一郎」
「あ、海苔を巻いてみるのはどうですか? それとも、私が食べさせて差し上げましょうか?」
「京一郎!」
「とにかく少し待っていてくださいね。すぐに持ってきますから!」
そうして京一郎は跳ねるように部屋を飛び出していった。
きっと今頃千家は後悔に頭を痛めていることだろうが、そんなのは知ったことではない。
今夜は私の我儘にとことんつきあってもらおう。
それだけで今日は充分過ぎるほどに特別な日になるのだから。
その夜、褥ではいつも以上に啼かされたうえ、数日後には千家から過剰なまでの贈り物を受け取る羽目になることなど知りもせず、京一郎は足取りも軽やかに厨房へと急いだ。
- end -
2014.02.20
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