Way to You
帰宅した僕を、今日もランプの小さな点滅が迎える。
ここのところ毎日のように、自宅の留守番電話には短いメッセージが残されていた。
今日もまだ見捨てられていなかったことへの安心感と、今日もまだ諦めてくれていないことへの苛立ち。
そんな矛盾する感情に思わず溜息を吐きながら、僕は再生ボタンを押す。
流れてきたのは、やっぱりあの人の声で、そこには微かな怒りと落胆の響きが含まれているように感じられた。
機械越しに名を呼ばれただけなのに、どうしてこんなにも胸が苦しいのだろう。
会わなくなって、たった数週間しか経っていないというのに、どうしてこんなにも懐かしいのだろう。
―――ごめんなさい、如月さん。
もう一度聞きたくなる気持ちを抑えて、僕はそれを消去した。
薄紫の雲が、窓の外に広がっている。
夕陽はもう沈みかけているようだ。
さっきまでグラウンドから聞こえてきたクラブ活動をする生徒達の声も、今はもう聞こえない。
僕は部屋の中央にある大きな机の前に進み出ると、その向こう側に座る人物に茶封筒を差し出した。
「任務、終了致しました」
館長は茶封筒の中から報告書を取り出して、それに目を通す。
そして確認が済むと、再び書類を封筒に仕舞った。
「……ご苦労だった。恐らくこれが君にとって、拳武館としては最後の仕事になるだろう」
館長の言葉に、僕は頭を下げた。
拳武館暗殺組としての仕事が、今終わりを告げたのだ。
けれどそれはまだ、現実感を伴ってはいなかった。
館長は背中を預けていた椅子から僅かに身を乗り出すと、いつになく穏やかな口調で僕に言った。
「君は本当に良くやってくれた。緋勇の息子達との件も含め、私は君達を誇りに思っているよ」
「……ありがとうございます」
龍麻の名が出たことに、小さな胸の痛みを覚える。
僕があれ以来、龍麻達に会っていないことを、館長は知らない。
館長は再び、椅子に背を預けた。
「ところで先日、君に話した件だが……。もう決心はついたかね?」
「いえ……まだ」
申し訳ありません、と僕が頭を下げると、館長は頷いた。
「卒業までは、まだ時間がある。ゆっくり考えなさい」
「はい……」
それは卒業後、ある妖魔を狩る組織のエージェントとして働く気はないかという打診だった。
本来ならば、とうに進路を決めていなければならない時期だ。
しかし先の柳生との戦いを終えた後、色々と考えてはみたものの、まだ答えを出すことが出来ずにいた。
決して悪い話ではないと思う。
自分には相応しい仕事であるような気もしている。
それなのに素直に引き受けることを躊躇っているのは、その話を聞いたときに、館長の言った言葉が忘れられないからだろう。
―――私は君ならば、その任務を充分に果たすことが出来ると思っている。
しかしそれは君が、これからも陰の世界で生きなければならないことをも意味している。
そんなことは、とうに覚悟していた。
覚悟していたけれど、もう少しだけ夢を見ていたかった。
もう、少しだけ。
「……君は、よく頑張った」
館長は立ち上がると、机を回り、僕の前に立った。
「君がその気ならば、陰の世界とは手を切って、普通の人生を送ることも可能だろう。
その為に私に出来ることがあるならば、援助は惜しまないつもりだ」
「館長……」
この人は、本当にそう思っているのだろうか。
確かに金銭的な不安は、当面無いに等しい。
拳武館にいる間に出来た蓄えと、今後働いて出来る収入とを考えれば、母の面倒を看ながら生活していくことは出来るだろう。
けれど問題は、そんなことではなかった。
戸惑いながら見上げると、館長は微笑んでいた。
「紅葉……君はもう、子供ではない。だから、よく考えなさい。君の人生だ」
「……はい。ありがとうございます」
僕は一礼して、館長室を後にした。
帰り道、僕は共に戦った仲間達の顔をひとりひとり思い浮かべていた。
彼らはきっと、もうそれぞれに決めた道があるのだろう。
留まっているのは、僕だけなのかもしれない。
凍てついた冬の夜空を見上げると、幾つもの星が輝いていた。
あの中に、僕の宿星もあるのだろうか。
星は僕を、何処へ導くのだろうか。
帰宅すると、部屋は暗闇に包まれていた。
いつも僕を迎えるランプの点滅が、今日は無い。
―――ああ、とうとう。
力が抜けていく。
自らが望んで招いた事態だというのに、どうしようもない寂しさが襲い掛かる。
一緒に過ごした時間はほんの短いものだったはずなのに、いつの間に僕はこんなにもあの人を必要としていたのだろうか。
灯りもつけないまま、呆然と電話の前で立ち尽くしていると、不意に部屋のチャイムが鳴った。
「……はい」
確認もせずにドアを開けてしまったのは、頭が上手く回っていなかったからかもしれない。
すると向こう側から、弾けるような声が上がった。
「ビンゴー! なっ、絶対にいると思ったんだよ! 当たっただろ?!」
「わ、分かったから、ひーちゃん……。お前も少しは持てっての」
「龍麻……京一君も」
唖然とした。
そこには満面の笑みを浮かべた龍麻と、重そうなスーパーの袋を幾つも下げた京一君の姿があった。
「い、いったい、何の騒ぎだい?」
戸惑いながら尋ねる僕を押し退けて、龍麻は勝手に玄関に入ってくる。
「だって紅葉、ちっとも連絡取れないからさぁ。こっちから、押しかけるしかないと思って」
「それは……」
「ほら、翡翠も! 早く、入って!」
「……!」
龍麻に呼ばれ、ドアの死角から顔を出したのは、紛れも無く如月さんだった。
「……如月、さん」
息が止まりそうになる。
会いたくて、会いたくて、堪らなかった人。
その人が今、目の前にいる。
けれど如月さんは意に反して無理矢理連れてこられたのか、とても厳しい表情をしていた。
「……やあ」
短く如月さんが発した言葉に、僕は声を出すことも出来ず、無言で頭を下げた。
「よしっ、お邪魔しまーす。あ、後から村雨とかも来る予定だから。
この間、せっかく皆で集まるって連絡したのに、紅葉ってば無視するんだもんなあ。
罰として今日は、むさ苦しいヤロウしか呼んでないからね。残念でした」
「あの、龍麻……」
「この後、駅まで迎えに行かなきゃいけないんだけど、とりあえずなんか飲ませて。
俺、喉渇いちゃった。あれ、なんで真っ暗なの? 電気、どこ? あ、ここか」
「邪魔するぜー」
家主をそっちのけで、龍麻と京一君は勝手に部屋に上がりこむ。
如月さんだけが、ドアの前に立ったままだった。
「……どうぞ、入ってください」
「……お邪魔するよ」
僕が言うと、漸く如月さんも部屋に入った。
「あ、紅葉。なんにもしなくていいからね。全部、用意してきてあるから」
そう言って龍麻は、テーブルの上にジュースのペットボトルと、紙コップを並べた。
袋の中にはまだ数本のペットボトルと、お菓子の類が大量に入っている。
僕の家には客をもてなすような準備が整っていないことを、予想してきてくれたのだろう。
僕達は四人で、小さなテーブルを囲んで座った。
「乾杯は全員揃ってからだからな」
「ちッ。俺はビールにしようって言ったのによぉ」
「京一は、飲むとタチが悪いからダメ」
「俺、なんかしたことあったか?!」
「あった、あった。最悪だった」
「マジかよ……」
龍麻と京一君は喋りながら、それぞれ自分でジュースを注いで口にした。
僕と如月さんだけが、気まずさに黙り込んだまま、そんな彼らをただ見ていた。
「あっ、そうだ」
すると龍麻が何かを思い出したらしく、コップを置いて僕の方を見た。
「紅葉には、まだ言ってなかったと思うんだけど。俺、卒業したら、京一と一緒に中国に行くから」
「えっ? 中国?」
驚いて、思わず聞き返すと、龍麻がわざとらしく困ったような顔をしてみせる。
「そう、中国。京一がね、どうしても俺に一緒に来て欲しいって言うもんだから……」
「言ってねーよ!」
京一君の突っ込みに、僕達は笑った。
「そうか、中国に……」
やはり龍麻も京一君も、自分の進む道を決めていたのだ。
二人が離れた土地に行ってしまうのは少し寂しかったけれど、
僕は素直にその選択を祝福したいと感じていた。
「……だからさ、紅葉。俺がいない間、如月と一緒に、ここをよろしくな」
「えっ……僕も、かい?」
如月さんはこの地を守る飛水家の末裔であり、玄武の宿星を持つ人間だ。
だから龍麻がそんなことを言うのも分かる。
けれど何故、僕にも同じ想いを託すのだろう。
不思議に思っていると、龍麻は笑いながら僕の肩を叩いた。
「だって紅葉は、俺の表裏じゃん。だから、よろしく。あっ、もちろん何かあったら、すぐに呼んで。
京一置き去りにしてでも、駆けつけるから」
「なんで、置き去りなんだよ! 俺も来るって」
「龍麻……」
僕は、返す言葉に迷った。
僕が皆から距離を置こうとしていることは、龍麻も気づいているはずだ。
そのことを、はっきりと告げた方がいいのだろうか。
しかし考えているうちに、龍麻は壁の時計を見ると、素早く腰を上げた。
「おっと。そろそろ、あいつらも駅に着く頃だな。京一、一緒に来てよ」
「あぁ? 俺もかよ? めんどくせぇなぁ」
「いいから、来る! あっ、翡翠はここに残ってて。それじゃあ、ちょっくら行ってくるわ」
引き止める間もなく、龍麻はぐずる京一君の腕を強引に引っ張って、行ってしまった。
後には、僕と如月さんだけが残される。
今までの騒ぎが嘘のように、部屋には気まずい沈黙が流れた。
「……さっきの龍麻の言葉、君はどう受け止めるつもりだい?」
問い詰められ、僕は言葉を失った。
「……すみません」
答えにもなっていない。
案の定、如月さんは僕の曖昧な返答を、ぴしゃりと跳ね除けた。
「謝ってもらいたいわけじゃないよ」
さっきまでの厳しい表情は消えていたけれど、如月さんは僕の顔を見ようとはしなかった。
「どうして僕達を遠ざけなければならないんだ? 僕にももう、会わないつもりだったのかい?」
「……」
多分、そうだったのだろう。
その方がいいのだと、僕は本気で思っていた。
如月さんは大きな溜息を吐くと、僕の方に体を向けて、真っ直ぐに見つめてきた。
「ちゃんと説明してくれないか、紅葉。そうでないと、僕は納得出来ない」
「如月さん……」
やはり、この人に嘘は吐けない。
吐きたくない。
だから僕は、話すことにした。
「……夢を、見ていたようだったんです」
「夢……?」
僕はまた、彼らの顔を思い浮かべた。
彼らと過ごした、短い日々を。
「龍麻達に出会って、僕はまるで自分が普通の高校生になったような気がしていました。
皆で肩を並べて街を歩いたり、放課後に集まって他愛ない時間を過ごしたり。
出会ったきっかけは普通とは言えないけれど、それでも僕にとっては、初めてのことばかりでしたから」
そう、それはまるで夢のようだった。
友人と笑い合うことも、誰かに恋をすることも、
僕には縁の無いことだと思っていたから。
悪夢のような戦いもあったけれど、それは寧ろ僕の日常に近いものだった。
だから僕にとっては皆と過ごす穏やかな時間の方が、よほど現実離れしているように感じられたのだ。
そして僕は夢から覚めた後も、未だその夢への未練を捨てきれずにいた。
館長の言葉に躊躇いを覚え、進路を決められずにいるのも、その所為だ。
僕には僕が生きるに相応しい場所があるのだと、分かっているはずなのに。
だから僕は、彼らから離れようとした。
馬鹿げた未練を、断ち切る為に。
「……僕は、やっぱり彼らとは違うんです。
力に目醒めた僅かな間だけ、人の心の闇を覗いてしまった彼らとは違って、
僕は今までもずっと、そんな世界で生きてきました。そして多分、これからもそうでしょう。
だから戦いを終えて、陽の当たる場所に戻った彼らと、僕のような人間がいつまでも付き合いを続けるべきじゃないと、
僕はそう思って……!」
突然、それまで黙っていた如月さんが、身を乗り出して僕の肩を強く掴んだ。
そして彼にしては珍しく、声を荒げて言った。
「そういう君の態度こそが、かえって相手を傷つけているのだと、どうして分からない……!」
この人がこんな風に激昂するのを見たのは、恐らく初めてのことだった。
肩に食い込む指が痛い。
けれど如月さんの目は、怒っているというよりも、悲しんでいるように見えた。
「……紅葉。君の歩んできた道は、確かに陽の当たる道ではなかったかもしれない。
けれどそれは、こうして僕達と出会えた今に繋がる道だったんだじゃないのか?
君の選んだ道は間違っていなかったんだと、僕は思っている」
「間違って……いなかった……」
―――ああ。
僕はきっと、ずっと誰かにそんな風に言ってもらいたかったのだ。
それがどんなに暗い道だったとしても、彼らに―――あなたに出会う為の道だったのなら。
如月さんの指が緩む。
それは微かな痛みを残しながら、温もりへと変わっていった。
「君は自分が生きる世界に、負い目を感じる必要なんて無いんだ。
光があれば、必ず影が出来る。今回のことで、皆にもそれがよく分かったはずだよ」
「如月さん……」
永い間、胸の中にあった蟠りが剥がれ落ちていくような気がした。
如月さんの指が動いて、僕の頬に触れる。
「だから、紅葉。そんな風に考えるのは、よすんだ。皆、君を必要としているんだからね」
「如月さん……あなたも、ですか?」
僕が尋ねると、如月さんは困惑したように目を見開いた。
「あ、当たり前だろう。分かりきっていることを、聞かないでくれ」
「良かった……ありがとうございます」
照れたように言う如月さんの言葉に、僕は心から安堵した。
これからも、この人の傍にいていいのだ。
たとえどんな世界に生きていようと、僕は決してひとりではない。
「如月さん……」
額を寄せ合う。
そして唇を重ねようとしたとき、玄関のドアが勢いよく開いた。
「ただいまー! ……あれっ? もしかして」
「だから言ったじゃねぇか、先生。こいつらは心配する必要なんて、ねぇんだって」
慌てて離れた僕達を見て、村雨が呆れたように笑っている。
「い、いらっしゃい。ちょっと狭いかもしれないけど……」
雰囲気を誤魔化すように僕は立ち上がり、皆を中へと促した。
龍麻、京一君、村雨、それに紫暮さんと雨紋君までいる。
一気に混み合った部屋の中を見ながら、僕は自分がとても幸せだと感じていた。
「しかし、マジ狭くなっちまったな」
京一君がぼやくと、龍麻が振り返って言う。
「おい、紫暮。絶対に、分裂するなよ!」
その場にいた全員が、一斉に声を上げて笑った。
数日後、僕は再び館長の下を訪れた。
あの日と同じ、夕暮れの館長室。
僕にはもう、僅かな迷いも無かった。
「先日のお話……お受けしたいと思います」
僕が申し出ると、館長はゆっくりと立ち上がった。
「……本当に、よいのだな?」
「はい」
館長が微笑みながら、僕の前に立つ。
大きな人だ。
大きくて、暖かい。
僕の歩んできた道を、ずっと見守ってくれていた人。
僕はずっと、ひとりではなかったのだ。
今ならば、それが分かる。
気づかせてくれたのは、大切な仲間達。
そして、愛する人だ。
「紅葉……大きくなったな」
その言葉に僕は、記憶に無い父の姿を見たような気がした。
校門を出ると、僕は足早に駅へと向かった。
今日は久し振りに、あの人とゆっくり過ごせるだろう。
もしかしたらまた他の連中がやってくるかもしれないけれど、それもいい。
早く。
早く、会いたい。
逸る気持ちを抑えきれず、あの店へと続く道を、僕は走り出した。
- end -
2007.06.29
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