美シイモノ
ぴしゃり、と水が跳ねた。
うっかり踏んだ水溜まりから、冷たさが染み込んでくる。
忌々しさに軽く溜め息を吐いた。
昨夜降り積もった雪は、今日の陽気ですぐに溶けてしまった。
路肩に寄せられた不恰好な雪の塊は既に泥にまみれ、その残骸混じりの水溜まりがあちこちに出来ている。
真夜中に窓から覗いた景色は、まさに銀世界だったのに。
真っ白く降り積もった雪はどこかふんわりとして見えて、触れたら意外にも暖かいのではないだろうか?と馬鹿なことを考えた。
けれど今は濡れたアスファルトの濃い灰色と、どこかから流れ出してきた土の色が、残された雪の白ささえもくすませているように見える。
都会では、雪景色が美しいのはほんの一時のことなのだ。
いや、雪景色に限ったことではない。
排気ガスで濁った空気が花や木をも枯らしてしまう。
宝石を散りばめたような夜景も、遠目に見ているからいいのだ。
一歩人が踏み込んだ途端、美しいものは永遠でなくなる。
自然に敵うものはない。
そう思うと、なんだか少しだけ悲しくなった。
マンションのエレベーターを上がり、三階に着くと一番奥の部屋を目指す。
薄いグリーンのドアがいくつも並ぶ廊下を進み、309と書かれたドアの呼び鈴を押した。
暫く間があって、鍵を開ける音がする。
「いらっしゃい、如月さん」
開いたドアの向こうで、紅葉はにっこりと笑った。
「昨日の雪、すごかったですね」
紅葉に導かれて部屋に上がる。
僕がここに来るのは二度目だった。
普段は彼が僕の店に来るのが常だったが、今日は久し振りに店を休みにして紅葉の部屋で過ごす事に決めた。
特に理由はなかったのだが。
「相変わらず片付いているんだね」
「そうですか? 物が少ないだけですよ」
紅葉の部屋は確かに物が少ない。
生活感を感じさせないし、冷え冷えとさえしている。
彼はここに僕を呼ぶことを余り好まない。
ふと、この部屋は彼にとって、彼の孤独の象徴なのかもしれないと思う。
ひとり部屋で過ごしている時、彼はどんな顔をしているのだろう。
僕の知らない紅葉が、そこにはいるのだろうか。
「はい、如月さん」
ハンガーを片手に持った紅葉が手を差し出す。
僕は脱いだコートを手渡した。
その時、僕と紅葉の手が触れた。
「あ。すごく冷たい」
紅葉は僕の手を取ると、それを自分の首筋に運んだ。
体格にしては華奢な、白い首筋に僕の掌が押し付けられる。
「紅葉?」
「ここ、あったかいんですよ」
確かに、じんわりと手が温まってゆく。
そんなことをしたら自分が冷たいだろうに、気にする様子もない。
少しばかり戸惑っている僕に、紅葉は穏やかに微笑んでみせた。
「ね? あったかいでしょう」
「紅葉……」
僕はそのまま彼の首筋を引き寄せ抱き締めた。
「如月さん?」
「この方が……もっと暖かいだろう?」
「……そうですね」
微笑を含んだ声で紅葉はそう答え、僕の背中に手を回した。
互いの体温が溶け合っていく。
僕は紅葉の髪の甘い匂いを嗅いだ。
どんなに美しくとも、形あるものは壊れてゆく。
それは故意であったり、自然現象であったり。
そして人はその流れに逆らうことは出来ない。
けれど、僕は気づいた。
僕達が互いを愛しいと想う気持ち。
この気持ちだけは変わらないのだと。
永遠に美しいものはここにある、と。
- end -
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