水葬


押さえ込んだ数々の情動は、何処へ行ってしまうのだろう。
形を成すことの出来なかった言の葉は、何処へ降り積もれば良いのだろう。
行き場の無い想いをいつまでも抱えたまま、僕は途方に暮れていた。

「……紅葉?」
如月さんが僕の名を呼ぶと同時に、部屋の柱時計がひとつ鳴った。
5時30分。
夕暮れとは程遠い薄墨を流した空が、窓ガラスの向こうに見える。
「あ、すみません。ぼうっとしていて……」
「いいさ、別に」
如月さんは優しく、本当に優しく笑って立ち上がる。
僕はその微笑みに見惚れて、再び意識がぼんやりとしていくのを感じた。
「そろそろ店を閉めてくるよ」
如月さんが座敷を出ると、僕は解放されたような気持ちになって小さな溜息を吐いた。

如月さんは、初めて僕の生活の中に溶け込んできた人だった。
それは余りにも自然なことだったから、僕はなんの迷いもなくそれを受け入れた。
あの人の持つ穏やかな物腰、柔らかな微笑み。
暗殺者という使命を担う一方で、僕がずっと求めていた静寂と安堵を彼は持っていた。
ここで共に過ごす時間は、僕にとってかけがえの無いものになっていた。
なのに……。

それが胸の痛みを連れてきたのはいつからだろう。
些細な仕草が、言葉が、僕を苦しめる。
肩先に触れられるたびに、その温もりを永遠に閉じ込めてしまえたらと思う自分がいた。
初めて覚える感情。
なにかを独占したいとか、失いたくないとか、そんなことを考えたことは今まで無かった。
僕はその感情を持て余しては焦燥感に襲われ、ただ無様に逃げ出すしかなかった。
仲間という仮面を着けたまま、平静を装って。

如月さんがなかなか戻ってこないことに、僕はふと不安を感じた。
(何かあった……?)
僕は気配を消し、警戒心を整えてから店先を伺うために立ち上がった。

しかし、それは僕の取り越し苦労だった。
如月さんは店の玄関を開け放ったまま、柱に凭れ外を眺めていた。
何を見ているのだろう。
漆黒の髪に隠れて、その表情は解らない。
両腕を力なく垂らして、顎を少し上げている。
「……如月さん?」
恐る恐る声をかけると、如月さんは我に返ったように振り向いた。
「あ、ああ。すまない」
「どうかしたんですか?」
「いや、なんでもないよ。雨が降ってきたんでね」
数歩近づき、如月さんに並んで外を見る。
パタパタと音を立てて落ちる雨粒が、アスファルトの灰色を濃くしはじめていた。
「ほんとだ。雨……ですね」
ほの暗い店先。
強まる雨音。
傍に立つ如月さんの体温が、伝わってくるような気がした。
「―――帰るには、傘がいるね」
ふいに、如月さんが僕の横を擦り抜けていく。
雨の匂いを孕んだ空気が揺れて、心臓が小さく鳴った。
「待っ……」
ほとんど、無意識だった。
僕は傘を取りに行こうとする如月さんの手を掴んで、引き止めていた。
「紅葉……?」
このまま手を引いてあなたを抱きしめたら、あなたはどうするだろうか。
あなたも僕の背に腕を回してくれるだろうか。
それとも驚き、突き放すだろうか。
言えるはずの無い言葉が、僕の喉を詰まらせる。

モット アナタト イッショニ イタイ

僕は息を吸い込みながら、ゆっくりと指を解いた。
「……大丈夫です」
「えっ?」
精一杯の努力をもって、それだけを言った。
そして、そのまま雨の中を駆け出した。
「紅葉!」
如月さんの呼ぶ声に、僕は片手を上げた。
けれど振り向く勇気はなかった。

どれだけ走っただろう。
雨は益々激しくなってゆく。
僕は濡れた髪を振って、暗く淀んだ空に向かって顔を上げた。
もっと雨に打たれたい。
全てを流してしまいたい。
熱にうかされた僕を、冷ましてほしい。

雨の中、僕は僕の想いを弔ってしまおう。
あの人を感じる、この水の中で。
血に塗れた僕の手が、これ以上あの人を穢さないように。

- end -

2002.08.26


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