鼓動


雨の夜は好きだ。
別に感傷的な理由があるわけではない。
単に仕事がしやすいからだ。
目の前で崩れ落ちた男からは、赤黒い血が流れ出していることだろう。
しかしそれも地面を叩きつける雨と暗闇のおかげで、目にすることもなければ、あの独特の匂いを嗅ぐこともなくて済む。
とうに慣れきっているとはいえ、避けられるものならばそのほうがいい。

雷鳴が轟き、滝の如く降り続ける雨の中、僕はその男を暫く見下ろしていた。
微かな痙攣を残し、男が事切れたのを確認すると、目を伏せる。
自ら手を下した者を弔うなど無意味な行為だと知りながら、いつからかそうせずにはいられなくなっていた。
ふと男の上着のポケットからはみ出している物に気づき、拾い上げてみる。
雨と血に濡れたそれは、恐らくは男の家族の写真だった。
幸福そうに笑う妻と、二人の幼い子供たち。
僕はこの男について、それほど多くのことを知らない。
知っているのは、彼が拳武館に暗殺を依頼されるような罪を犯してしまったということだけ。
しかしそれは彼の人生のうちの極一部に過ぎないのだ。
僕が終わらせた、彼の人生の。

僕はその写真を、もう動くことのない男の手にそっと握らせて、その場を立ち去った。

如月の家の玄関先で微かな物音がしたのは、午前二時を過ぎた頃だった。
その日、夕方から降り出した雨は時間を追うごとに激しさを増し、 深夜を過ぎた今もまだ叩きつけるような雨が降り続いていた。
だから既に床に着いていた如月がその音に気づくことが出来たのは、奇跡と言っても良かっただろう。
確かに人並み外れた能力を持っているから、どんなに微かな物音でも気づくことは出来る。
しかしそのときに如月が感じたのは、「胸騒ぎ」―――のようなものだった。
だからいつもならばそのまま眠ってしまうところを、如月はわざわざ物音の正体を確かめにいくことにしたのだ。
「……誰か、いるのか?」
戸の向こうには、確かに人の気配がした。
しかし激しい雨音の中、耳を澄ますが応答は無い。
如月は警戒しながらも、ゆっくりと戸を開けた。
「紅葉……! どうしたんだ、いったい!」
そこにはよく知った顔の男が、ずぶ濡れで立ち尽くしていた。
「……」
驚いて尋ねるも、壬生は僅かに微笑むだけで何も答えない。
濡れた前髪の奥から何処か虚ろな瞳が見えて、如月は嫌な予感がした。
「……とにかく、早く中に」
如月は壬生の腕を引き、濡れるのも構わず部屋の中へと導く。
壬生は抵抗するでもなく座敷に上がると、畳に落ちる雫をぼんやりと見つめていた。
「今、タオルを持ってくるから。その服を早く脱いで」
雨を吸った制服はすっかり色を変えていた。
体温を奪われているのであろう、壬生の顔は青ざめている。
しかし急いで部屋を出て行こうとする如月を、掠れた声が呼び止めた。
「……如月さん……」
「なんだい?」
「全ての生命体の中で……人間だけが持っている力とは何か、知っていますか……?」
「……?」
如月は怪訝そうに眉根を寄せる。
今はそんな話をしている場合ではないはずだ。
彼に風邪をひかせたくはなかった。
しかしまるで独り言のように喋る壬生の言葉を、今は聞いてやらなければいけないような気がして、 如月は焦れながらも耳を傾けた。
壬生は俯いたまま続ける。
「想像する力です。見たことがないものでも、経験したことがなくても、僅かな情報や、時にはそれすら無しで、何かを頭の中に思い描くことが出来る……」
雨音に掻き消されてしまいそうな声。
ガラス障子の向こうに、ぼんやりと庭木の影が揺れている。
大粒の雨が打ちつける音は、また激しさを増していた。
「今日、僕はまた人を殺しました。だけど僕は考えないようにしていた。 彼にも家族がいて、愛する人がいて、誰かに愛されているのだということを」
「……」
「……如月さん」
そこで漸く壬生は、真っ直ぐに如月を見つめた。
「僕はこれからも……人でいられるのでしょうか……?」
「紅葉……」
悲しい問い掛け。
壬生の迷いを知っていた如月は、思わず壬生に手を伸ばし抱き寄せた。
濡れた制服に身を包んだままの体は酷く冷たく、それでも如月はその腕を緩めようとはしなかった。
壬生は如月の肩口に顔を埋めながら、尚も続ける。
「想像することを止めた僕は、本当に人と言えるのか……。 忠義だなどと言って、罪の意識から逃れようとしているだけなのではないかと……」
「紅葉、もういいから」
しかし壬生は首を振る。
彼が微かに震えているのは、寒さの所為だけではないのだろう。
如月はまるで母親がするかのように、壬生の背を優しく撫でる。
「迷ってはいけないと分かっています。けれど僕もいつか、自分の犯した罪に飲み込まれてしまうかもしれない……そんな風に思ってしまう」
「馬鹿な。そんなはずがない。紅葉に限って、そんなことあるはずがないよ」
「そうでしょうか」
「そうやって迷うのも、君が人であるが為だ。そんなに自分を責めることはないんだ」
「如月さん……」
壬生は顔を上げると、寄り添っていた体を離す。
如月の腕が、名残惜しげに解けた。
心配そうな如月の表情を見て、壬生は自嘲の笑みを浮かべる。
「すみません。僕はあなたに、甘えすぎですね……」
「そんなことはいい。けど、さっきみたいなことを言うのはやめてくれ。たまらないよ」
「それなら……」
壬生は少しためらって、それから酷く辛そうに言った。
「甘えついでに……確かめさせては、もらえませんか……?」
「確かめる……?」
「僕が人間だということを……誰かを愛するひとりの人間だということを……」
零れ落ちた雨の雫が、まるで涙のように壬生の頬を伝う。
「……あなたを愛している、人間だということを」
「……」
如月は再び壬生に手を伸ばす。
壬生の濡れた制服の上着を脱がし、肌に貼りついたシャツの前を肌蹴ると、冷たい胸に触れた。
如月の指先に、壬生の鼓動が伝わる。
「大丈夫……心配することなど、何もないよ」
「如月さん……」
二人の唇がゆっくりと重なる。
それはいつしか深く、熱いものとなっていった。

その場で服を脱ぎ捨て、畳の上に横たわる。
冷え切った壬生の体を、如月の体温が包み込んだ。
「紅葉……君が君を信じられなくなっても、僕が君を信じているから……」
「っ……」
耳元で囁かれ、壬生は短く息を吐き出す。
如月の唇と掌が触れるたびに、体が温もりを取り戻していくのが分かった。
「如月さん……っ」
幾度も名を呼びながら、その背をかき抱きしがみつく。
そんな風にしなくとも離れるはずなどないのにと、如月はせつなくなった。
「紅葉……大丈夫だよ」
あらゆる場所に唇を落とし、紅い痕を残していく。
けれど決して欲望だけに流されない優しい愛撫に、壬生の緊張もいつしか解れていった。
救いを求めるようだった声が、やがて濡れた吐息に変わり始める。
それに気づくと、如月は壬生の中にゆっくりと身を沈めていった。
「あ、あぁ……っ……!」
内側を満たされていく感覚に、壬生は嬌声を上げる。
この迷いは、簡単には消えないだろう。
いや、消えてはいけないのだ。
それこそが人である証ならば、迷いを抱えて尚、強くならなければならない。
見えぬ不安さえも支配して、自分自身を確かめながら。
「……あなたが……いれば……」
貫かれながら、壬生は如月の顔に手を伸ばした。
あなたがいれば―――きっと、大丈夫。
如月は答えるかわりに、微笑む。
その微笑みに安堵して、壬生も漸く笑みを浮かべた。

迷わない人間などいない。
不安にならない人間などいない。
そしてそんなとき人は、誰かに抱き締められたいと願うのだろう。

だから、人は鼓動を重ねる。

何度も、何度でも、生きている限り。

- end -

2006.06.21


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