桔梗
その時はまだ、解らなかった。
「こんにちは」
いつものように如月骨董品店を訪れると、店主の姿が見えなかった。
「……如月さん? いないんですか?」
珍しいな、と思いつつ裏に回ってみる。
案の定、如月さんは裏庭にいた。
そこには小さな蔵と1本の桜の樹、それから名前の解らない幾つかの植物が茂っている。
前にも見たことがあるが、それほど広くないスペースを上手く活用しているあたりが如月さんらしいと思う。
如雨露で水を蒔いていた彼は僕の姿に目を止めて微笑んだ。
「やぁ、壬生。いらっしゃい」
「……そこ、何か植えてあるんですか?」
一ヶ所だけやけに丁寧に水を蒔いているように見えて、僕には気になった。
それに如月さんがとても優しい表情をしていたから。
「ああ」
如月さんは如雨露を置くと、縁側に置いてあった手拭いで軽く手を拭いた。
「去年、桔梗を植えたんだよ」
「桔梗、ですか」
如月さんについて店のほうに戻りながら、話し続ける。
「桔梗の根や茎は薬になるからね。知らなかったかい?」
「知りません」
「まぁ、そうだろうな。無論、それだけが理由というわけじゃないが」
如月さんが少し笑う。
この人の笑顔は、好きだ。
穏やかで、柔らかで、安心する。
「好きなんだ」
「……?」
「桔梗の花が」
「ああ……花が」
我ながら可笑しな返答だったと思う。
ただ、その時の僕は彼の笑顔に見惚れていたようだ。
"好きなんだ"という言葉に、思いもよらず動揺してしまったのが恥ずかしかった。
「で、何の用だい?」
如月さんは自分の店の中をぐるりと見渡して言った。
「あ、龍麻に頼まれたものがありまして」
如月さんは僕の差し出したメモを見ると、書かれた物を手際良く棚から取り出して袋に詰めてくれた。
「それにしても……」
清算を済ませて暇を告げようとすると、如月さんは腕を組んでまじまじと僕を眺めながら溜め息をついた。
「壬生を使い走りさせるとはね」
一瞬、返答に窮する。
そんな風には思ってもみなかった。
使い走り……なのだろうか?
「そんなことは……僕もこれから旧校舎に行くので」
「……君がいいんなら僕は構わないが。だが、僕としては……」
「……」
気を悪くしたつもりなどなかったが、そう見えたのだろうか。
如月さんは僕の顔を見て、いや、いいと言ったきり黙ってしまった。
どちらかといえば、怒っているのは如月さんの方に見えた。
「……じゃあ、また来ます」
なんとなく気まずい雰囲気のまま、僕は店を出た。
それから数日後のことだった。
例の如く旧校舎に潜った後、村雨が如月さんのところへ遊びに行こうと言い出した。
如月さんの家は広さも充分にあるし、その上一人暮しということでしばしば遊び場にされている。
その日も、一緒にいた醍醐君や美里さん達は帰ったが、村雨と龍麻と僕、それから京一君が如月さんの家に押しかけることとなった。
突然来られるのに如月さんもすっかり慣れたようで(半ば諦めもある)、
僕達は村雨の持ってきた酒をしこたま飲んで騒ぎ、結局泊まることになってしまった。
僕としては先日のことが気になっていて、如月さんのところに来るのは多少ためらわれた。
しかし来てみれば彼はいつも通りで、僕の取り越し苦労だったのかと思う。
僕は安心していた。
「ハァ……」
夜中過ぎ、喉が乾いて起きてしまった。
勝手に台所に行って、水を飲む。
実を言うとここのところ仕事が立て込んでいて、今日も酷く疲れていたのだ。
僕は流しに手をついて、暫く項垂れていた。
「……壬生?」
ハッとして振り返ると、暗闇の中に如月さんが立っていた。
「あ、あぁ……如月さん」
「どうしたんだ。気分でも悪いのかい?」
「いえ、ちょっと喉が乾いただけです」
「そうか……。あまり元気が無いように見えたからね。大丈夫ならいい」
僕は少し驚いた。
如月さんがそんなことに気づいていたとは。
この人は僕が思うよりずっと他人に気を遣っているのかもしれない。
「すみません。起こしましたか?」
「いや、僕も水を飲みに来ただけだ」
「そうですか……」
声を潜め、相手の顔も見えない状態で話しをするのはなんだか変な気分だった。
秘密を共有しているような、妙な高揚感がある。
「如月さん」
「うん?」
「この間のことなんですが……」
「この間?」
「ええ。如月さん……なにか怒っていませんでしたか?」
すぐに返事は返ってこなかった。
その間は、肯定を意味していたのだろう。
みし、と木の床が鳴った。
「君が、"頼まれて来た"というのが気に入らなかっただけだ」
「……」
どういう意味だろうか。
返答に困る。
頼まれて来たのではなく、自主的に来たのなら良かったということだろうか。
けど、何故?
「……意味が解りかねるんですが」
「そうか」
「……」
沈黙が鼓動を速める。
如月さんはいったい……?
「壬生」
名を呼ばれ、腕を掴まれた。
その腕が軽く引かれかと思うと、唇に何かが触れた。
「……?!」
如月さんにキスをされているのだと解るまで、数秒掛かった。
冷たい唇。
ふわりと、香の匂いがした。
僕は如月さんを無理矢理突き放した。
「如月さん……っ」
呼吸が乱れる。
責めるような口調だったかもしれない。
如月さんは僕の腕を漸く放した。
「すまない……忘れてくれ」
彼がどんな顔をしていたのか、暗くて見ることは出来なかった。
唇の感触が消えない。
あれから何度も、あの時のことを反芻している自分がいる。
この気持ちはなんなんだろう。
確かに、龍麻に会って僕は変わった。
仲間というのもいいものだな、と思うようになった。
けれど、この気持ちは何処かが違う。
力を持つ仲間としてではなく、ただの壬生紅葉として如月さんと付き合いたい。
あの人を知りたい。
そう思う気持ちを止めることは出来なかった。
僕は一人、如月骨董品店に向かった。
「……こんにちは」
またしても店に如月さんはいなかった。
この間と同じように、僕は裏庭に回る。
「……如月さん、こんにちは」
「あぁ、壬生」
今日の如月さんは微笑んではくれなかった。
そのことがこんなにも寂しいのは何故だろう。
「今日も使い走りかい?」
如月さんは僕を見ずに言う。
「いえ、違います」
「じゃあ、どうしたんだ」
「如月さんに会いに来ました」
「……」
如月さんは先日水を蒔いていた場所の前にしゃがみ込んだ。
そこには薄紫の美しい花が幾つも咲いていた。
「この間のことなら、忘れてくれと言ったはずだが」
「忘れられません」
「なら、悪い夢を見たと思って諦めてくれ」
「嫌です」
「……頑固なんだな」
「……はい。多分」
如月さんは一番大きく咲いていた一輪を摘み、立ち上がった。
「何故、僕に会いに来た」
「……何故でしょうね」
如月さんはふっと微笑み、僕にその花を差し出した。
「咲いたんだ。桔梗」
ああ、この笑みだ。
僕が見たかった、如月さんの笑顔。
僕も微笑み、その花を受け取った。
「お茶でも飲んでいくかい」
「……はい」
僕はまだ知らなかった。
自分の気持ちも。
人を愛することの意味も。
けれどいつか、芽生えたばかりのこの想いは、僕にとってかけがえの無いものになるだろう。
あなたの側でそれを知る日まで、大切に育てていけたらいいと思う。
桔梗の花言葉 −変わらぬ愛情−
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