カナリア


まさかこの年で、縁側でお茶を飲むという状況にこれほど幸せを感じるとは思わなかった。
高校の卒業式を終えたのが二週間前。
五十年は早くないだろうか。
湯呑みから立ち上る濃厚な玉露の香りを吸い込んでから、壬生は小さく笑いを漏らした。
「……何を一人で笑っているんだい」
隣りで同じように、湯呑みを抱えた如月が尋ねる。
「いいえ。別に」
如月が顔を顰めたのが分かっても、壬生は口を割ろうとはしなかった。
自分にとってこの何気無い時間どれだけ愛しいものなのか、それを教えてしまうのは、何故だか勿体無いような気がした。

陽射しが燦々と降り注いでいる。
まだ日によって気温の差は激しいが、今日は文句無しに暖かい。
穏やかな空気に時折眠気を誘われながら静かな時間を過ごしていると、 目の前に何か黄色い綿毛のようなものが舞い降りてきた。
庭の垣根に止まったそれに、二人の視線が釘付けになる。
「……インコか」
如月が呟いた。
「カナリアかもしれませんよ」
「そうかな。分かるのかい?」
「いえ、分かりません」
なんだ、と如月が笑ったので、壬生も笑った。
小鳥はまたすぐに飛び立つかと思いきや、鮮やかな黄色の羽根を閉じたまま、弾むように垣根の上を移動していくばかりだ。
近所で飼われていたのが、逃げ出してきたのだろう。
小刻みに首を動かす様子が、どこか戸惑いながらも外の世界を楽しんでいるように見えて、とても可愛らしかった。
この陽気だ、籠から出て羽ばたきたくなる気持ちも分かる。
しかしここは飼い主の為にも、やはり捕獲しておくべきなのだろうかと壬生が考えたとき、如月が唐突に口を開いた。
「ああ、思い出した」
「なにをですか?」
「カナリアの歌だ。知ってるかい?」
そう言われて思い浮かぶ歌は、ひとつしかない。
「歌を忘れたカナリアは……ってやつですか?」
「そう。それだよ」
如月は、眉根を寄せながら肯定した。
どうやらこの歌に関して、彼はあまりいい感情を持っていないらしい。
「嫌いな歌なんですか?」
単刀直入に尋ねると、如月は顰め面のまま腕を組み、短い溜息を吐いた。
「嫌いというよりも、怖かったんだろうな」
「怖かった」
その意外な返答に、壬生は思わず鸚鵡返しに言った。
「子供の頃の話さ」
如月が苦笑する。
確かに物騒な歌ではある。
啼かなくなったカナリアを山に捨てようかだの、鞭でぶとうかだのと、子供にはやや衝撃的な歌詞だ。
しかし後にはきちんと、それを制止する言葉が続く。
幼い頃の話とはいえ、如月が童謡ごときを怖がったなど、壬生には想像もつかなかった。
小鳥はまだ、垣根の上に佇んでいる。
「この歌を初めて聞いたとき、ぞっとしたんだよ。自分とカナリアを重ねてしまったんだろうね。 もし自分が飛水の末裔として不適格な者とみなされたら、同じように捨てられてしまうかもしれないと思った。 祖父は厳しい人だったから」
壬生は納得した。
如月も自分と同じく、誰かに甘えることを許されずに生きてきたのだ。
己を律し、自らに使命を課し、ただひたすらにそれを遵守する。
自分で納得して選んだとはいえ、それはとても孤独な道だった。
少なくとも彼らに―――仲間に、出会うまでは。
「怖くなって、必死で修行したよ。結果的には、それで良かったのかもしれないけどね」
如月は小鳥を見つめながら、目を細めた。
昔の自分を懐かしんでいるような横顔だった。
「……如月さんは、この歌を最後まで聞いたことがなかったんですね」
「え?」
「このカナリア、最後には歌を思い出すんですよ」
笑いながら壬生は言うと、小さな声で続きを口ずさんだ。

「……上手いんだな」
歌詞の内容もさることながら、初めて聞いた壬生の歌に、如月は興味を注がれた。
「か、からかわないでくださいよ」
想定外の反応に、壬生がうろたえる。
その様子に、如月が思わず笑った。
「それにしても、知らなかったよ。ちゃんと歌を思い出すのか」
「ええ。子供の頃、母がよく歌っていたのを覚えています。……でも実は、僕もこの歌が嫌いでした。 この最後の部分こそが、嫌いだったんですけど」
「へぇ……。それは、どうしてだい?」
如月は不思議そうに首を傾げる。
「だって」
壬生は少し俯くと、歌われている光景を思い浮かべた。
月夜の海。
象牙の舟、銀の櫂。
その舟に乗った、一羽の小鳥。
カナリアは歌を忘れたのではなく、もう誰にも歌を歌いたくなかったのかもしれないと思った。
人の悪意に疲れ、自分の存在価値も分からなくなり、 ひとりきりになって、漸く心安らかに歌うことが出来たのではないかと。
それは美しいけれど、酷く寂しい光景だった。
「……思い出した歌を聞いてくれる人は、もう誰もいない。誰にも届かないんです。そんなの、寂しいだけじゃありませんか」
「……」
壬生の話を聞いた如月はしばらく黙り込んでいたものの、不意に微笑みを浮かべて言った。
「君こそ、勘違いしているんじゃないかな」
「え?」
壬生が顔を上げる。
如月は組んでいた腕を解き、壬生の方に僅かに身体を傾けた。
「そのカナリアは、ひとりぼっちなんかじゃないはずだ。捨てられそうになるのを、止めてくれた人がいただろう。 きっとその人が、カナリアを夜の海に運んで、舟に乗せてくれたんだ。 カナリアの傍には、自分を守ってくれた人がいたんだよ」
ああ、と壬生は溜息のような声を出した。
月夜の海を漂っていた心が、目の前の暖かな庭先へと、一気に呼び戻されたようだった。
「そうか……そうですね。どうして気づかなかったんだろう」
二人の視線が、まだ同じ場所に留まっている小鳥へと向けられる。
そのとき表の通りから、この鳥のものと思われる名を呼ぶ声が聞こえてきた。
「カナリアは自分のいるべき場所に辿り着けたのさ。だから、歌を思い出せた」
そして大切な人の為、もう一度歌うことを選んだ。
どんな状況になっても自分を守り、傍にいてくれた大切な人の為に。
「……そういうことなら、僕が歌を忘れることはないでしょうね」
僕はもう、自分のいるべき場所を見つけていますから。
壬生の言ったその意味を分かっていながら、如月はわざとからかった。
「そうだね。じゃあ、今度はなんの歌を歌ってくれるんだい?」
「そういう意味じゃありませんよ」
笑いあう二人の前で、小鳥は美しく囀ると、呼ぶ声のする方に向かって飛び立っていった。

- end -

2007.05.17


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