逃げた兎


村中に夕餉の香りが漂う。
あちこちの屋根から上る釜戸の煙は、夕映えの空を行く鴉達にまで届いていた。
その匂いに誘われて家に帰ってゆく子供達の小さな後姿を見ながら、龍斗は思わず微笑んでいた。
「師匠!」
自分を呼ぶ声に振り返ると、九桐が天戒の屋敷の方から小走りに駆け寄ってくるのが見えた。
「どうした、九桐?」
「あ、いや……風祭の奴を見かけなかったかと思ってな」
「いや。見てないけど」
「そうか……」
九桐は綺麗に剃られた頭を掻きながら、眉を寄せて苦笑いする。
「実は昼間、あいつの鍛錬につきあっていたんだが、ちとやりすぎてしまってな。まあ、腹が減れば帰ってくるとは思うんだが……」
澳継の負けず嫌いがどれほどのものか、龍斗もよく知っていた。
大方、九桐に負けたのが悔しくて、むきになって鍛錬を続けているのだろう。
想像して龍斗は、九桐と同じように苦笑いを浮かべた。
「じゃあ、俺、ちょっと探してくるよ」
「すまんな。これであいつが飯を食いはぐれでもしたら、手に負えなくなりそうだ」
龍斗は笑いながら九桐と別れると、澳継がいつも鍛錬をしている場所へと向かった。

夕暮れの双羅山は鬱蒼と茂った木々のせいで既に薄暗く、しんと静まり返っていた。
普段ならば泰山や壬生に出会うこともあるが、さすがにこの時刻では誰と擦れ違うこともない。
足元で立つカサカサという乾いた音だけを聞きながら、龍斗は奥へと進んでいった。
「おーい、澳継ー」
とりあえず呼んで、耳を澄ませてみる。
しかし聞こえてきたのは、何かが羽ばたいて木の枝を揺らす音だけだった。
いつもならこの辺りにいるはず……と周囲を見回してみるが、動くものは何も見当たらない。
「いねぇか……」
来る途中には誰にも会わなかったのだから、行き違いということはないだろう。
もしかすると、最初からここには来ていなかったのかもしれない。
それならば既に村に戻っている可能性もある。
諦めて、来た道を戻ろうとしたときだった。
「……?」
木の影から、人の足らしきものが覗いている。
不審に思いながら近づいていくと、そこには確かに澳継が横たわっていた。
「澳継ッ?!」
一瞬、最悪の事態を思い浮かべる。
怪我でもして倒れているのではないかと慌てたのも束の間、上から見下ろした澳継の様子は平和そのものだった。
「なんだ、寝てんのかよ〜……」
龍斗は胸を撫で下ろす。
疲れて眠ってしまったのだろうか。
いつものように一発蹴りを入れて起こしてやろうかとも思ったが、思い留まった。
自分の右腕を枕にして眠っている澳継は、本当に子供のようなあどけない顔をしている。
ふっくらとしたその頬に悪戯してやりたくなる衝動に駆られて、龍斗は笑いを堪えた。
音を立てないよう澳継の側にしゃがみ込み、そうっと顔を近づけていく。
澳継はぴくりとも動かない。
吐息がかかるほどの距離まで近づいたとき、龍斗は呟いた。
「……起きてるだろ」
「……!!!」
澳継はぱちっと目を開けると、顔どころか耳まで真っ赤に染めて飛び起きた。
「うっ、うるせぇ!! なんなんだよ、てめぇは!!!」
いきなり怒鳴りつけるところを見ると、どうやら図星だったらしい。
龍斗はしゃがんだ膝の上で頬杖をつき、不思議そうに首を傾げる。
「お前こそなんなんだよ。なんで寝てるふりなんかするんだ?」
「お、驚かしてやろうと思ったんだよ! それなのに、お前が変なことしやがるから……」
「変なことって? 俺、なんにもしてないけど」
「……ッ」
何故怒鳴られるのか分からないといった表情で龍斗に言われ、澳継は言葉に詰まった。
本当は龍斗に名前を呼ばれた時点で目覚めていたのだ。
しかし、近づいてきたら驚かしてやろうと思っていたのも本当だ。
それなのに龍斗の行動は、澳継の予想を大きく外れてしまった。
てっきり蹴るか殴るかしてくると思って、いつこちらから蹴りを食らわしてやろうかと隙を伺っていたのに……。
龍斗の気配を至近距離で感じて動揺してしまったなどと、言えるはずがなかった。
「……もしかして、なにか期待してたとか?」
「!!!」
鎌を掛けた龍斗の言葉に、澳継は見事に反応した。
ますます顔を赤くして怒鳴る。
「きッ、期待ってなんだよ!!! 俺は別に……」
「あーはいはい、分かった分かった。俺が悪かったよ」
既に手に負えない状態のようだ。
龍斗は澳継を宥めるように掌を見せる。
澳継が本当は自分に対して好意を持っていることに、龍斗は気がついていた。
しかし澳継の性格からいって、それを素直に表すとは到底思えない。
なんとかボロを出させようと日々頑張っているのだが、なかなか上手くはいかなかった。
龍斗は今日のところはこの辺で諦めることにして、膝を叩いて立ち上がった。
「さ、早く戻らないと飯食いっぱぐれるぞ。さっさと帰ろうぜ」
「……」
しかし澳継は動こうとはせずに、上目遣いで龍斗を睨みつけている。
それから仏頂面のまま、龍斗に向かって手を伸ばしてきた。
唐突に差し出された手を見下ろしながら、龍斗はきょとんとする。
「……なに?」
「手、だよ! 手!!」
「ああ」
それが立ち上がるのに手を貸せという意味なのだと漸く分かり、龍斗は澳継の手を掴んだ。
(こういうことしてくるから、からかいたくなるんだよなぁ)
龍斗は心の中でほくそ笑むと、思いきり澳継の手を引いた。
「ほら、よっ」
「……!」
強く引っ張られた澳継は、勢い余って龍斗の胸に顔を突っ込む。
身長差のせいで龍斗の開かれた首筋に直接頬が触れ、澳継の身体が一瞬強張った。
「おっと、悪ぃ」
澳継のことだ、どうせすぐに飛び退いて罵声のひとつでも浴びせてくるのだろうと思っていた。
しかし澳継は飛び退くどころか触れた頬を離そうともせず、龍斗の腰の辺りをぎゅっと掴んできた。
戸惑ったのは寧ろ、龍斗のほうだった。
「……お、澳継?」
「……!」
龍斗が声を発した途端、澳継は我に返ったようにぱっと手を離し後退る。
「澳継、お前……」
「う……うるせぇ!! てめぇなんか大嫌いだッ!!!」
澳継はそう吐き捨てると、呆然としている龍斗を置き去りにして走り去ってしまった。
「……やられた」
澳継の後姿を見送りながら、龍斗が呟く。
せっかく捕まえかけたのに、みすみす逃がしてしまうとは情けない。
今度いつあんな事があるかも分からないのに、なんて勿体無いことをしてしまったんだ、と龍斗は後悔した。
(俺もまだまだ修行が足りないな……)
思いながら龍斗は、ひとり寂しく帰路へとつくしかなかった。

- end -

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