涙
目がいったのは偶然ではなかった。
鍛錬所からの帰り道すがら、其処はいつもならば素通りするはずの場所だった。
村の外れにある見張り櫓の天辺に、白い胴着姿が見える。
それが誰なのかは遠目にもすぐに分かった。
(……何やってるんだ、あいつ?)
普通に考えれば見張りをしているに決まっているのだが、とてもそうは見えない。
櫓の天辺にいる人物は座り込んでいるらしく、腰から上だけを柵の間から覗かせている。
こちら側からは後ろ姿しか見ることが出来なかったが、丸まった背中といい、
緊張感が無いというか、ただ景色をぼんやりと眺めているだけという雰囲気がありありと漂っていた。
それにこの刻限に彼が見張りをしていたことなど一度も無い。
たまたま下忍の代わりをしていたとしても、その態度は酷く怠慢なものだった。
澳継は屋敷へ向かおうとしていた足を、櫓の方へと向けた。
「おい、た……」
歩きながら名を呼ぼうとして止めた。
こっそり登っていって、背後からひとつ渇を入れてやろう。
名案を思いついた澳継はほくそ笑んだ。
出来るだけ気配を消して櫓へと近づき、梯子を登っていく。
誰かが来たことに気づかないはずもないだろうと分かってはいたが、
よもやそれが自分だとは思わないだろう。
驚く顔を思い浮かべて、澳継は口元を緩ませた。
そして天辺まで辿り着くと、そうっと目から上だけを出して様子を伺う。
無防備な背中。
澳継は息を吸い込み、思い切り声を上げた。
「……おいッ!!」
龍斗が弾かれたように振り向く。
その表情は確かに澳継の期待を裏切らなかった。
しかし悔しいことに、澳継はその何倍も驚かされることとなったのだ。
「……た……ッ」
一瞬、言葉を失う。
慌てて梯子を登りきると、飛び掛るようにして龍斗の両肩を掴んだ。
「ど、どうしたんだよ!? 何かあったのか?!」
龍斗の頬には、一筋の涙が伝っていた。
見間違いでないことを確認した澳継の心臓が、早鐘を打ち始める。
たじろいている龍斗を余所に、矢継ぎ早で問い掛けた。
「どっか痛ェのか?! 何かされたのか?! それとも誰か死んだか?!」
答えようにも答える隙が無い。
さっきから何度も口を開こうとしていた龍斗は、とうとう顔を顰めて澳継の手を振り払った。
澳継は勢いで尻餅をつく。
「黙れ、澳継!! 縁起でも無ェこと言うな!」
怒鳴られて、澳継は漸く口を噤んだ。
「だ、って……」
心臓は相変わらず口から飛び出しそうなほどに激しく鼓動を打っている。
龍斗が泣くなど余程のことがあったに違いない。
そう思って動揺を隠せずにいる澳継を、龍斗はうんざりした顔で睨みつけた。
「まったくお前はよぉ……」
言いながら、濡れた頬を掌で拭う。
それから溜息を吐いて、頭を掻いた。
「……なんなんだよ、いったい」
気が抜けたように呟く澳継に、龍斗は苦笑しながら答えた。
「お前こそなんなんだよ、いったい」
「だって、お前、泣いて……」
「ああ、これか?」
濡れた睫を指先で弾いて、龍斗は照れ臭そうに笑った。
「なぁ、澳継。あれ見てみろよ」
「あれ……?」
龍斗が立ち上がり、眼前の何も無い空間を顎でしゃくる。
澳継も鈍く痛む尻を撫でながら、億劫そうに立ち上がった。
二人の前に広がったのは、燃えるような夕焼けだった。
遠い山並みに今にも姿を消しそうな濃い橙色の夕陽がかかっている。
幾つもの色が滲むように重なる空と、夕陽を受けて黄金色に輝く雲。
神々しい程の景色に、澳継の鼓動はゆっくりと穏やかさを取り戻していった。
「……すっげぇ綺麗だろ。こんな夕焼け、俺は初めて見たような気がするぜ」
感慨深げに言う龍斗と共に、澳継も暫し呆然とその眺望に見入る。
強い風が吹いて、二人の髪と櫓が微かに揺れた。
そしてその風の冷たさが、澳継を現実に引き戻す。
「……! あ、あのな! 夕陽なんかどうでもいいんだよ! 俺はそんなことを聞いてるんじゃねぇ!」
承知はしていたが、矢張り情緒の無い奴だ。
そう思った龍斗は、やれやれと肩を竦めた。
「だから。これが理由だ」
「……はぁ?」
龍斗は目を閉じ、胸を抑えながらしみじみと言う。
「この景色を見ていたら、なんていうか胸が詰まってきてだなぁ……」
澳継は事の次第を理解した。
「じゃあ、てめぇは……」
呆れて、それ以上は言葉が続かない。
龍斗は見事な夕焼けに胸打たれて泣いていたというのだ。
物凄い速さで、頭に血が昇るのが分かった。
「く……っだらねぇ!!!」
「おっと。くだらねぇとは聞き捨てならねぇな」
「充分くだらねぇだろうが! そんなことで泣いてたのかよ?! 人がこれだけ……!」
心配したのに、という言葉を、澳継は寸でのところで呑み込んだ。
せっかく落ち着いた鼓動が、再び速さを増す。
(心配、だと―――?!)
そんな風に思った自分自身が信じられなかった。
なんたる失態。
けれどそれはわざわざ口にせずとも、既に龍斗に伝わってしまっていた。
「悪かったな、澳継。心配かけて」
苦笑しながら頭をぽんぽんと叩かれて、澳継の中で何かが切れた。
「だっ……誰がてめぇのことなんか心配するか!!!」
ありったけの声量で怒鳴りつけて、澳継はさっさと梯子を降り始める。
龍斗が慌てたように後を追ってきた。
「澳継、悪かったって」
「うるせぇ!! ついてくんな!! てめぇは一生そこでぼけっとしてやがれ!!!」
「いや、もう充分見たから。それにもうすぐ飯だしな」
「……くそッ!」
澳継は梯子の途中から地面に飛び降り、そのまま肩を怒らせて歩いていく。
しかし足の長さの違いの所為か、龍斗を振り切ることが出来ない。
澳継は悔しさに唇を噛んだ。
「どうせ向かう先は同じなんだから、置いていくなよ〜」
いつの間にかぴったり隣りを歩いていた龍斗は、しつこく声を掛けてくる。
無神経なのか面白がっているのか、否、どちらも同じことだ。
澳継はただ只管、龍斗が視界に入らないよう真っ直ぐ前だけを見て歩いた。
「なあ、心配してくれて嬉しかったんだぜ?」
「だから心配なんてしてねぇって言ってんだろ」
「それにお前とあの景色を見られたことも嬉しかったな」
「……知るか!」
確かに綺麗な夕焼けだった。
けれど今、澳継の頭の中に思い浮かぶのは、ただ龍斗の涙ばかりだった。
あれを見た瞬間、自分でも訳が分からないほどに狼狽してしまった。
もしもあの涙の理由が他の何かだったら、どんな行動に出ていたか分からない。
考えるだけでも恐ろしい。
(二度と見たくねぇ―――)
とにかく龍斗の涙など、金輪際見たくなかった。
それがたとえ、どんな涙であろうとも。
- end -
2005.01.31
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