真白


余りの寒さに目が覚めてしまった。
特に鼻の頭が冷たくて、思わず布団に顔を擦りつける。
屋敷の中はしんと静まりかえっていた。
いつも朝早いはずの、子供達の声すらまだ聞こえない。
もう一度眠ろうとして目を閉じてみたものの、妙に意識が冴えてしまったようだ。
澳継は損をしたような気分になって、とりあえず寝ぼけ眼をしばたたかせた。

こんなに早く目が覚めてしまったのは、寒さのせいだけではなかった。
部屋の空気が違うのが分かる。
いつもより澄んでいて、清浄な感じがする。
障子紙を透ってくる光も、いつもの朝とは違う色をしていた。
そう、不自然に真っ白すぎるのだ。
(……もしかして)
布団を被ったまま、もそもそと障子に近づき細く開ける。
その途端、部屋の中とは比べ物にならない冷気が顔を打って、 目の前には予想通りの景色が広がった。
「うわ……」
思わず声が漏れるほどの、見事な雪景色。
垣根の上にも、庭木の枯れた枝の上にも、真っ白な雪が積もっている。
いつごろから降り出したのだろう、しかしまだ止む気配はない。
低く広がった雲が自ら千切れて舞い落ちるかのように、雪は音も立てずに降り続けていた。
「どうりで寒いはずだよ……」
震える身体を自分で抱きながら布団に戻りかけて、 澳継はもう一度振り返った。
人影が見えた気がしたのだ。
気のせいかもしれないと思いながら、今度は障子を半分ほど開けて顔を覗かせてみる。
見間違いではなかった。
「たっ……あいつ、何やってんだ……?」
雪の中、龍斗が立っていた。
寒くないはずがないのに、いつものように綺麗に背中を伸ばし、 軽く両手を広げながら舞い降りてくる雪を見上げている。
白い雪の中、白い胴着に身を包んだ龍斗の黒髪だけがつやつやと景色に映えて、 まるで一枚の墨絵を見ているような気になった。
「……」
一瞬、見惚れていたのかもしれない。
そのとき、声を掛けることも忘れて見つめ続ける澳継の視線に気づいたのか、龍斗が不意にこちらを向いた。
「あ、澳継」
「!」
背中に被った布団の中で、澳継は反射的に首を竦める。
それを見て、龍斗は笑いながら手招きした。
「おい、そんな亀みたいなかっこしてないで来てみろよ。すげェ、雪だぞ」
亀とはなんだ。
澳継はむっとして言い返す。
「……んなもん、見りゃあ分かんだよ。 ついでに、このクソ寒いのにそんなとこに突っ立ってるお前が、すげェ馬鹿だってこともよっく分かったぜ」
澳継は顎を出して、思いきり悪態をついてみせた。
しかし龍斗も負けてはいない。
目を見開き、首を突き出して、わざと大袈裟に驚く。
「はぁっ? こんぐらいで寒いの、お前? 鍛え方が足りねェんじゃねぇか?」
「んだとぉっ?!」
案の定、澳継はムキになる。
龍斗に「鍛え方が足りない」などと言われるのは、澳継にとって一番の屈辱だった。
被っていた布団を跳ね除けると、身を乗り出して怒鳴る。
「誰だって寒いに決まってんだろが! 雪降ってんだぞ、雪! 寒くないなんて言ってのはてめェだけだ!!」
「しいっ! うるせェよ! みんな、起きちまうだろうが」
「……っ」
窘められて、咄嗟に口を噤む。
天戒でさえ、まだ眠っているはずの時刻だ。
慌ててきょろきょろと廊下を見渡す。
突然、何かの塊が右のこめかみを打った。
それから頬と首筋辺りを、冷たいものが伝う。
痛みは然程無いが、着物の襟首から入り込んだ水滴がとにかく冷たい。
震えながら庭を見ると、龍斗は平然としながら二つ目の雪玉を作りはじめているところだった。
「さすが、俺。見事、命中」
龍斗がにやりと笑う。
「……こ……ッの野郎……」
雪の塊を投げつけられたと分かって、澳継は猛然と庭へ飛び出した。
そのまま龍斗の真正面に入り込んで、蹴りの二、三発でもくらわしてやるつもりだったのだ。
しかしすっかり雪に覆われた庭で、いつものような動きが取れるはずもない。
狙いを定めて構えるより先に、二発目の雪玉が澳継の額にぶち当たった。
「ちったぁ避けろよ、澳継〜」
龍斗は腹を抱えて笑っている。
もう許せない。
「てめェ……ぶっ殺してやる!!!」
澳継は叫ぶと、半ばやけくそになって龍斗に飛び掛った。
「うらぁぁぁっ!!」
「おわっ!」
龍斗が仰向けにひっくり返り、雪が舞い上がる。
澳継はすかさずその上に馬乗りになると、拳を振り下ろそうとした。
寸でのところでその腕を掴んで、龍斗は澳継を必死に宥める。
「ちょ、ちょっと待て! 澳継、落ち着け! 俺が悪かった!」
「うるせェ! 今更、遅ぇんだよ!」
「だから……あ、ほら、上! 上、見てみろってば!」
「あぁ?!」
龍斗の言葉に、澳継がほんの僅かに気を逸らした。
咄嗟に龍斗は掴んでいた腕を引っ張って、澳継の身体を乱暴に抱き寄せる。
「てめェ、なにすん……!」
逃れようとして必死にもがく澳継に、龍斗は空を指差してみせた。
「だから、ほら! 上だって!」
「んだよ! さっきから上、上って……」
不貞腐れたまま、渋々空を見上げる。
その瞬間、目の前に広がった光景のあまりの神聖さに、澳継は思わず息を呑んだ。

真っ白な空から、真っ白な雪が次々に舞い降りてくる。
雪景色なんて、冬になれば当たり前に見られるものでしかなかった。
けれどこんな風に、真正面から雪を受け止めるようにして空を見上げたのは初めてのような気がした。
無限に広がる空の中から、絶え間なく降り注ぐ雪の欠片。
いったいそれらは何処から生まれて、どれほどの時を経てここまで辿り着くのだろう。
ふと、以前に御神槌から聞いた話を思い出す。
神様は時折、天空から地上に使いを寄越すことがあるらしい。
天使と呼ばれる彼らは地上にいる人々に幸せを運ぶため、 真っ白い羽を持って舞い降りてくるのだそうだ。
勿論そんな話を信じているわけではなかったけれど、 この景色を見ていると、そんなことが本当にあってもいいような気がしてくる。
いつしか澳継は寒ささえ忘れて、ただ呆然と雪の中に身を預けていた。

「綺麗だなぁ……」
「おぅ……」
すぐ側で響く龍斗の呟きに、無意識に答える。
ぴったりと重なった体から伝わってくる温もり。
澳継はゆっくりと龍斗の方に顔を向けた。
思った以上にその距離は近く、龍斗の頬が、唇が、今にも自分のそれと触れそうなところにあった。
やがて龍斗の視線もこちらを向く。
目と目が合う。
心臓が、大きく鳴って―――。

「……ぶぇっくしょい!!!」
「!!!」
特大のクシャミを顔面にお見舞いされて、澳継は飛び起きた。
慌てて顔を拭いながら、龍斗の足に蹴りを入れる。
「てめェ、人に向かってしてんじゃねェよ!」
「あはは、悪ぃ悪ぃ」
「ったく……」
まったく心のこもっていない謝罪を口をしながら、龍斗は漸く雪の上から起き上がった。
澳継も立ち上がり、あちこちについた雪を払う。
身体はすっかり冷え切ってしまっていた。
「うー、寒ぃっ。こんなことしてたら、風邪ひいちまうぜ」
さっきまで庭で一人、突っ立っていた奴の言うことだろうか。
打って変わって寒そうに身を縮める龍斗に、澳継は呆れ果てた。
「あのなぁ……今頃、言ってんなよ」
「まぁまぁ。朝の運動ってことで。早く中、入ろうぜ」
笑いながら言って、龍斗は澳継の手を取る。
寒さで真っ赤になった手を繋ぎ合う。

降り続ける雪の中。
龍斗と二人きりで見上げた、真っ白な世界。
あの時、ずっとこのままでいたいなんて思ったことは、龍斗には絶対に内緒だった。

- end -

2002.12.03


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