UNLOVED


虫使い達の村は静まり返っていた。
灯りの点いている家は既にひとつもなく、時折谷を吹き抜ける甲高い風の音だけが耳を突く。
余所者には禍々しくさえ見える虫達も、今頃は寝床で羽を休めていることだろう。

村の入口に立ったアルベルトは、背後に聳える黒々とした岩壁を見上げながら、白い息を僅かに弾ませていた。
陽が落ちてからの山道には、相当の体力が要った。
頭脳労働を主とする自分がここまでするのは、余りにもらしくないということぐらい充分に承知している。
しかしこの機を逃せばもう伝えることは出来ないだろうと、その想いだけがアルベルトを突き動かしていたのは紛れも無い事実だった。
いつからこんな風になったのだろう―――。
ふと考えてから、頭を緩く振った。
答えなど見つけないほうがいいのだ。
今更、そんなことを知ったところで何になる。

宿に向かう途中でその後ろ姿を見つけたとき、アルベルトは少しほっとした。
眠っているところを起こすのは気が重かった。
それは思いやりではなく、彼の寝起きが酷く悪いということだけが理由だ。
アルベルトはゆっくりと彼に近づいていった。
「……寒くはありませんか?」
峡谷の断崖から見下ろす夜景はただ闇に包まれ、まるで黒い海のようだ。
座り込んでいる小さな背中は、アルベルトの問い掛けに振り返ることもしなかった。
「……まだ僕に用があったのかい?」
「……」
確かにアルベルトにとって、ルックはもう用済みの相手だった。
望んだ地位は既に手の中にあり、そしてルックはハルモニアを敵に回してしまった。
しかし、だからこそ―――少しでも早く彼に伝えておかなければならないと思ったのだ。
「ササライ様ですが」
アルベルトが切り出すと、ルックの肩が小さく揺れた。
「体調が優れないとのことで、自室に篭っていらっしゃいます。 あなたのなさったことは、極一部の神官達以外にはまだ知られていないようです」
「……そう」
轟くような音を立てて、冷たい風が吹き抜ける。
ルックはばらけた前髪を掌で押さえながら、僅かに後ろを振り返った。
「そんなことを言う為に、わざわざ?」
「あなたが、気になさっているかと思いまして」
ルックは自嘲の笑みを浮かべた。
真なる土の紋章を奪われ、出生の秘密を知らされた哀れな兄弟のことを思う。
罪悪感などなかった。
長い間苦しんできた自分と比べ、何も知らず安穏と生きてきた彼を憎みこそすれ、同情などする余地も無い。
それでも、悪いのは彼ではないということも分かっていた。
あの男もまた犠牲者なのだと。
「……あと少しだよ」
ルックは立ち上がり、髪を靡かせた。
儀式まで、あと少し。
それが成功しようと失敗に終わろうと、どちらにせよこの呪われた命は其処で潰えるだろう。
迷うだけの選択肢も無くなった今となっては、ただその時が待ち遠しかった。
「ルック様―――」
視線が合うと、アルベルトは僅かに目を細めた。
何故か酷く懐かしい気持ちになった。
初めて出会った時のことを思い出す。
その時は、こんな言葉を口に出すことになろうとは思ってもみなかったというのに。
「私はあなたを、愛してなどいませんでした」
ルックは一瞬、呆けたような表情を見せた。
けれどアルベルトには確信があった。
自分の真意は彼に必ず伝わるはずだと。
そしてルックはゆっくりと、穏やかに微笑んだ。
「ああ……僕もだよ」
その答えに、アルベルトも微笑む。
共に過ごした時間は決して長くはなかったけれど、 それでもこんな風に笑みを交わしたのは初めてのことだった。
もう心残りは無い。
アルベルトは軽く頭を下げ、その場を立ち去った。



*


微かな地響きを感じて、アルベルトは足を止めた。
見えるはずのない遺跡の方角に目を向ける。
儀式は失敗に終わったのだろう。
初めから予想していたことだ。
だからアルベルトはあの場所から去ることを急がなかった。

あの夜―――。
愛していなかったと告げたときの、彼の穏やかな笑顔を思い出す。
あの言葉に込めた意味を、彼はすぐに理解してくれた。
愛すれば救いたくなる。
止めたくなる。
彼の望みを妨げる手段など、アルベルトは幾らでも持っていた。
しかし彼の行為もまた歴史の中の必然ならば、手出しは無用だった。
だから愛さなかった。
救うことも止めることも出来ないのなら、彼の為に出来ることなどそれぐらいしかなかった。

今。
彼の傍には、愛して彼を赦した者がいるのだろう。
けれど命果てるとき、愛さないことで彼を赦した者のことも少しは思い出してくれただろうか。

アルベルトはその場に佇んだまま、そっと目を閉じる。
残された者はただ、彼が心より望んだ安らぎを手に入れたことを祈るだけだった。

- end -

2005.04.16


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