燃える空


手元の薄暗さにいい加減嫌気が差して、アルベルトは漸く顔を上げた。
仕事を中断したくないばかりに、部屋の灯りをつけることすら後回しにしていたのだ。
机上に広げられた書類は、とうに濃いオレンジ色に染まっている。
顔を上げてみれば、夕暮れの侵食はいつの間にか部屋の隅々にまで広がっていた。
アルベルトは微かな目の痛みを感じながら立ち上がり、窓辺に近づく。
大き過ぎる窓硝子の向こう側に広がるのは、一面の夕焼け空。
今にも稜線の彼方に消えようとしている夕陽が、アルベルトを射た。
確かに美しい光景なのだろうとは思う。
しかしそれを前にして感傷的になるような情緒を、アルベルトは生憎と持ち合わせていなかった。
こういう景色を見た時、多くの人は「美しい」と言うのだろうと、理屈で理解するだけに留まっている。
西日を遮る為、カーテンを引こうとする。
その瞬間、不意に思い浮かんだ顔に手が止まった。
(あの方には、この空がどう見えているのだろうか―――)
部屋の扉が開いたのは、そう考えたのと同時だった。
余りにもタイミングのいい訪問者の姿を見て、アルベルトは思わず苦笑する。
「……何が可笑しい」
笑われたことに対する不快感を露わにしながら、訪問者であるルックが問う。
アルベルトは結局カーテンを閉めないまま、彼のほうに向き直った。
「いえ、ちょうどあなたのことを考えていたものですから」
正直に言ったというのに、ルックはますます眉間の皺を深くした。
「気味の悪いことを言うな」
そう吐き捨てて、アルベルトを睨みつける。
ルックは部屋の中を進み、窓際近くに置いてあった椅子に横柄な態度で腰掛けた。
アルベルトは少し呆れながら言う。
「随分と、御機嫌がお悪いようですね」
ルックはふんと鼻を鳴らすと、冷笑を浮かべた。
「機嫌の良い僕なんて、お前は見たことがあるのかい?」
「……それもそうですね」
戦火は広がる一方だった。
ルックは自分が火種を蒔いた張本人であるにも関わらず、余程気分が悪いらしい。
そんな彼の甘さはこの計画の障害にしかならないだろうが、 それでもアルベルトには何処か安堵するような気持ちもあった。
「それで? 僕の何を考えていたんだって?」
ルックは相変わらず唇の端を吊り上げながら、馬鹿にするような口調で尋ねる。
恐らく、本当はそれほど興味が無いだろうに。
その証拠にルックはテーブルに肘を乗せて頬杖をつくと、 答えなど待っていないとばかりに、退屈そうに指先を躍らせた。
そんな彼の態度は珍しくも無かったが、敢えてアルベルトはさっき思い浮かんだ疑問をぶつけてみたくなった。
「ルック様……あなたにはこの空が、どう見えているのですか?」
言いながらこつんと窓を叩くと、ルックが顔を上げる。
しかし視線は窓の外ではなく、あくまでもアルベルト自身に向けられていた。
「……どうして、そんなことが知りたい?」
そう聞き返されるであろうことは、予想の範囲内だった。
別段隠す必要も無いと思ったアルベルトは、素直に答える。
「好奇心……と言い切れればよいのですが、よく分かりません。 ただ、あなたの見ているこの世界を、私も時折見てみたくなるのです」
それは本当のことだった。
現実を感じた事が無いというルックの目に、この世界はどう見えているのか。
彼が破壊しようとしている世界が彼自身にとってどんなものなのか、アルベルトは知りたかった。
それさえ分かれば、途方も無い計画を成し遂げようとしている彼の心の奥底に触れられるような気がしたのだ。
好奇心というよりも、共有したいという願望。
そんな望みを抱く自分自身に疑問を感じながらも、アルベルトはルックの返答を待った。
「……」
ルックの表情が、ほんの少し和らいだように見えた。
彼は漸く硝子越しの風景に視線を送ると、それを暫く見つめていた。
やがてルックはゆっくりと立ち上がり、視線はそのままにアルベルトの横に並んだ。
「アルベルト……僕はね」
ルックの横顔が、炎の色に染まっている。
「どうしてあの時狂ってしまわなかったのか、ずっと不思議だったんだよ」
「あの時……と言いますと?」
「僕が僕の真実を知った時さ」
忌まわしい記憶を思い起こしているのだろう。
ルックは苦しげに目を伏せる。
「あのおぞましい事実を目の当たりにしながら、それでも僕は正気を保っていた。 いや……正気のつもりだった。でもね、今なら分かる。その時、僕はもう既に狂っていたんだよ。 僕は産まれた時から、狂っていた。この世界にあってはならない存在……異物だったんだ」
「……そうでしょうか」
異質と言わず、異物と表現したことがアルベルトの気に掛かった。
けれどルックはそのささやかな反論にも耳を貸さず、もう一度目蓋を上げて燃える空を見つめた。
「狂った僕が見ているこの世界は、やはり狂っているのだろう。 僕はこの世界の真の姿を知らないのかもしれない。それでも―――それでも、僕は」
詰まる言葉の続きが、アルベルトには聞こえたような気がした。
アルベルトは思う。
どうすればこの人に、この空の色を見せてやることが出来るのだろう。
いっそ自分も狂ってしまえたならいいのかもしれない。
もしもそうなれたなら、目の前にいるこの人をきつく胸に抱いて、この空の中に堕ちていける。
この燃えるような空の中に、二人で。
(狂っている―――か)
そんな風に考えてしまうこと自体、既にどうかしているじゃないか。
アルベルトはふっと微笑した。
「ルック様……あなたは狂ってなどいませんよ」
そう囁くと、ルックはアルベルトの顔を見上げた。
そう、彼は狂ってなどいない。
だから力を貸したのだ。
アルベルトの目から見ても、この世界は常にいびつで破綻している。
誰が狂っていて、誰が正気かなど、誰にも判断出来ない。
夕景を前にして心から美しいと思うことも出来ず、 寧ろこの炎の色に狂気すら感じている自分が必ず正気だなどとアルベルトは断言出来なかった。
「アルベルト、僕は……」
「もう、何も仰らないでください」
空は既に燃え尽き、灰になってしまった。
そして急ぎ足でやって来た闇が広がる。
今ならルックが見ている空と、同じ空が見えているのかもしれない。
アルベルトがその冷たい頬を掌で覆うと、ルックは静かに目を閉じる。
重ねた唇は微かに震えていて、アルベルトは僅かに残る炎の欠片を胸の内に感じた。

- end -

2006.11.05


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