Rejection
唇を重ねようとすると、彼は静かに顔を逸らした。
「……気が乗りませんか」
「そうじゃない」
僅かな苛立ちと、諦めを含んだ声音。
これ以上問い詰めるのは滑稽だと、黙り込むしかなかった。
長椅子に二人腰掛けたまま、沈黙が流れる。
部屋は今、私の目から見ても無彩色の空間だ。
細かな雨が、窓硝子を絶え間なく伝っている。
光りが無い所為で、陰も無い。
全ては冷たい水滴に吸い取られ、土へと帰っていくだけだ。
溜息さえも、雨音に消されてしまう。
「もう、そういうことはやめたほうがいいと思っただけさ」
声を発した唇だけが、動いた。
逸らされたままの彼の視線は、恐らく濡れた窓硝子の向こう側にあるのだろう。
私は暫く、彼の発言が意味するところを考えていた。
特に用件があるわけでも無い様子なのに私の部屋に居座り続けておきながら、
仕事を終えて抱き寄せようとすれば拒む。
しかもそれは命じるわけでも、頼むわけでもなく、判断をこちらに委ねるような曖昧な言い方だ。
彼が突然そんなことを言い出した理由は、尋ねなくとも分かっていた。
そしてそれが私にとって、極めて不愉快なものであることも。
「……あなたは、自分が同情されて当然だと思っていらっしゃるようだ」
私が言うと、彼は弾かれたようにこちらを向いた。
その瞳には、明らかな怒りの感情が見て取れる。
それは私の指摘が、的確なものであったことを証明していた。
この男は、私が自分に触れるのは同情と気紛れからだと思いたいらしい。
その思い込みが、まるきり的外れなものだとは言わない。
しかし本当にそれだけならば、抱くのにもっと都合の良い相手ぐらい幾らでもいるはずだとは考えないのだろうか。
腹を立てる権利があるのは、寧ろ私の方だった。
「あなたを一番哀れんでいるのは、あなた自身ですよ。私ではない」
「僕は……!」
しかし彼は溢れそうになったものを、唇を噛むことで堰き止めたようだ。
微かに震えている身体が、悔しさを物語っている。
吐き出してしまえばいいものを。
私がそれを狙って辛辣な言葉を浴びせかけたことなど、
既に俯いてしまっている彼には到底分かるはずも無かった。
私には他にも何も出来ないのだ。
抱かれることにさえ罪を覚えるこの男に、微笑みも涙も齎すのは不可能だろう。
ならば、怒りに任せてしまえばいい。
顕わになった己の感情を、自分自身で確かめればいいのだ。
それでも彼がそうしないのは、認めてしまえば全てが崩れると知っているからなのだろう。
雨音が強くなる。
部屋を染める灰色が、一段と濃くなっていく。
「……僕は憎まれるべき存在だ。同情の余地など微塵も無いことぐらい、分かっているさ」
気持ちが落ち着いたのか、彼の口調はとても穏やかだった。
しかし私の中に燻っている苛立ちは、未だ解消されていない。
私はどうしても彼を怒らせたかった。
「では、あなたはご自分のなさろうとしていることが、悪だとお思いなのですね」
否定されるのを承知で、決め付ける。
予想通り、彼は腰を浮かせて反論してきた。
「違う! そうじゃない!
たとえ今、どれほどの命を犠牲にしようとも、この世界を終焉から救う為には、これ以外の方法は無いんだ。僕はそう信じている!」
「ならば、お尋ねします。自分は人では無いと言いながら、そうまでして人々を救おうとするのは何故なのですか?」
「そ、それは……っ」
虚を衝かれたのか、彼は言葉を失った。
そして憮然たる面持ちで再び長椅子に腰を下ろすと、膝の上で固く拳を握り締めた。
その細い指も、薄い肩も、世界の行く末を背負うには、余りにも儚すぎるように見えた。
「許せないんだ……」
遠くで空が唸っている。
雷雲が近づいているようだ。
彼は俯いたまま、搾り出すように呟く。
「紋章の意思に従って生きる世界なんて、どう考えても間違っている……。
この呪縛から解き放たれない限り、また僕のような存在が造られるかもしれない。
こんな世界を、僕は許せないんだよ……」
彼の中にある葛藤が見える。
憎みながらも、愛していること。
拒絶しながら、欲していること。
その苦しみこそがまさに、人である証なのだとも気づかずに。
膝の上の掌が緩んだ。
彼は顔を上げ、再び窓の外に目をやる。
雨は激しさを増していた。
「けれど……紋章の意思を知らない人々に、こんなことが理解されるはずもない。
僕は悪鬼でいいんだ。だからお前も、必要以上に僕に関わるな。お前と僕とは、違う」
「……それではさきほどのセリフも、私を思いやってのことだと?」
「……」
私は彼の肩を突き飛ばし、長椅子の上に押し倒した。
細い両の手首を掴み、自由を奪う。
「アルベルト、何を……!」
「被害者面もいい加減にしてもらいたいですね。私は、認めていないのですよ」
一瞬、彼が怯んだのが分かった。戸惑った瞳に、私自身が映る。
「認めていないって……何をだ」
「あなたが、人ではないということをです」
彼は呆れたように目を見開くと、口角を吊り上げて私を嘲笑した。
「馬鹿な! お前にも見せたじゃないか、僕を構成している物質を。認めるも認めないも、事実はひとつだ。僕は化け物も同然なんだよ」
「それならば私はあなたにとって、化け物を抱く痴れ者で構わない。だけど私自身は、そう思っておりません」
「アルベルト……」
雷鳴が轟く。
私は彼の手を放した。
代わりに柔らかな彼の髪に、指を通す。
「ルック様……。私達は、利用し、利用され、戯れに抱き合う。それでいいのです。恐れることなど、何もありません」
「僕は、恐れてなど……」
彼は苦しげに目を伏せていたが、やがてゆっくりと瞼を上げると、真っ直ぐに私を見つめた。
「そう……だな。それでいいのかもしれない」
―――そうだ。
それでいい。
それでこそ私達の関係は成立する。
私のことなどで迷う必要は無い。
これ以上、この男の苦しみを増やすのは本意ではないのだから。
「……では、もう宜しいですか?」
微笑をもってして応えた彼は、何処か安堵しているようだった。
穏やかな瞳に、くちづけは漸く許され、私達は灰色の空間に溶けるべく抱き合った。
- end -
2007.04.27
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