Red
何かが割れるような音が聴こえた。
割と造りの良い宿のせいか、その音は本当に微かなものだったが、隣室が音源であったことは確かだ。
アルベルトは書き掛けの書状を机に残して、隣りの様子を見に行くことにした。
ノックをしても返答がなかったので、勝手にドアを開ける。
中は自分の部屋と同様に薄暗い。
ランプの弱々しい灯りでは部屋全体を照らすことは不可能なのだ。
彼は中央にある粗末なテーブルの前に座っていた。
割れたグラスの残骸が、其処彼処に散らばっている。
中に注がれていたのであろう紅い葡萄酒の一部はテーブルの上に広がり、
残りは縁をぽたぽたと落ちてくすんだ木の床に暗い染みを作っていた。
「何をなさってるんです?」
声を掛けると、ルックは酷く緩慢な動作で顔を上げた。
どんよりとした目つきでアルベルトの姿を捉えると、何か言いたげに唇を動かす。
しかし言葉そのものが出ることはなかった。
ああ、とうわ言のような短い声をあげたきり、再び視線を床に落とす。
「……私が片付けますから、もうお休みになられてはいかがですか」
半ば呆れながら吐き捨てて、アルベルトは一旦部屋を後にした。
一階にある受付でほとんど眠りこけていた女将に事情を話し、嫌な顔をされながらも拭く物と紙袋を受け取る。
それを手にもう一度部屋へ戻ると、ルックは既にベッドの上で体を投げ出していた。
嫌味のひとつも言ってやりたい気持ちになったが、片付けるほうが先だと判断する。
割れたガラスを丁寧に拾い集めては紙袋に入れていった。
「……ねぇ」
テーブルの向こう、ベッドの上から声がした。
もう眠っているものかと思っていたが、そうではなかったらしい。
「呑みすぎです」
呼びかけを無視して返す。
床を拭こうとして潜り込んだテーブルの下に、空になった葡萄酒の瓶が転がっているのを見つけたからだ。
しかしアルベルトの指摘もまた、無かったものにされた。
「お前もいつか結婚するつもり?」
「……はっ?」
少々呂律の回っていない口調で尋ねられ、アルベルトは思わず手を止める。
矢張り相当酔っているようだ。
自分が如何にくだらない質問をしているのかさえ分かっていないらしい。
そんな回らない頭で喋るぐらいならば黙って寝てしまえばいいのに、とアルベルトは彼を忌々しく思った。
「突然、なんですか?」
「だから……誰かと家庭を持って……子供が産まれて……家族を作って……」
「……」
アルベルトは掃除を再開する。
手を止めてまで聞くほどのこととは思えなかった。
「その血を……誰かに繋げていく気……?」
ルックの言いたいことは分かっていた。
あの男の言葉を思い出しているのだろう。
この泥酔もその所為なのだとしたら、だいぶダメージは大きかったようだ。
それでこそ、あの男も本望に違いない。
「何を仰りたいのですか?」
汚れた雑巾と紙袋をテーブルの上に放り出し、アルベルトはベッドへ近づいていった。
ルックは半開きの目で天井を眺めながらも、微かに笑っていた。
「別に何も……そのまま」
「あなたらしくもない質問だ」
アルベルトはベッドの端に腰掛けた。
ルックの体が僅かに揺れる。
「いずれはそうなるでしょう。それがシルバーバーグ家の為でもありますから」
そう答えるとルックは顔を両手で覆い隠し、可笑しくて堪らないといった風に喉の奥で笑った。
「何が可笑しいのです?」
「いや……」
理由も分からず笑われるのは不快極まりない。
アルベルトはルックの上に被さるようにして、顔の横に両手をついた。
真上から見下ろされている気配に、ルックは顔から手を離す。
「人間っていうのは……本当につまらない生き物だな……」
哀れみと蔑みに満ちた笑みを浮かべながら、ルックが言う。
アルベルトは彼に同じ笑みを返してやりたい気持ちになった。
そう言いながら人に焦がれているのは誰なのか。
そのつまらない生き物に遣り切れないほどの憧れと憎悪を抱いているのは誰なのか。
そしていっそ何もかもを破壊してやろうと決めながら、こんなにも苦しんでいるのは誰なのか。
そう責め立てることは幾らでも出来ただろう。
しかし今の彼にそれをしても無駄なことだ。
アルベルトはルックの侮蔑を甘んじて受けることにした。
「そうですね……つまらない、ちっぽけな存在です」
「ああ……その通りだよ」
ルックは満足気に答えながら、アルベルトに手を伸ばし触れようとした。
しかしそこに赤い色を見つけ、アルベルトは彼の手を掴んだ。
「……怪我をしていますね」
「え?」
ルックの左の手の甲にはガラスで切ったらしい細長い傷があった。
そこから僅かに血が滲んでいる。
「気づかなかったな」
ルックは傷を見ようともしない。
「痛みは?」
「ないよ。放っておけば治るだろう」
「……」
アルベルトはルックの手を離さないまま、その傷口にくちびるを寄せた。
舌先が皮膚を滑る感触に、ルックは目を細める。
「……僕の血は赤い?」
「ええ」
「本当に?」
「ええ」
「お前の髪より?」
空いたほうの手が、アルベルトの髪を弄んだ。
この赤い髪がアルベルトは好きではなかった。
何故か自分の弱みを見透かされたような気がして、一瞬躊躇しながら答える。
「……ええ。赤いです」
「ふぅん……そうなんだ……」
ルックは他人事のように言って、アルベルトの首筋を引き寄せる。
ランプの炎が揺れ、重なる二つの影が壁に歪んだ模様を描いていた。
- end -
2004.06.29
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