LILY BLUE


長い間避けていた―――逃げていたと言うべきか―――国だった。
なにひとつ良い思い出も無く、こうして神官将の立場を得て再び出入りするようになった今も、 懐かしさを感じることすらない。
それでもルックにとって、普通の人達で言うところの故郷とやらがこのハルモニアという国であることは、曲げようの無い事実だった。

アルベルトの話が漸く途切れたので、ルックは窓の外の陽光に満ちた景色に目をやった。
この辺りは一年を通して気温の低い日が多い土地だが、今日はとても暖かい。
僅かに開かれた窓から、部屋の中と外を繋ぐように、午睡を誘う穏やかな空気と時間が流れていく。
こうしていると世界の終焉など、永遠に訪れないような気がしてくるというものだ。
「あの花……」
ルックの呟きに、テーブルの向かい側に座っていたアルベルトが顔をあげる。
同じ方向に視線を向けると、少し離れたところに花壇が見えた。
そこには薄い青色をした花が無数に揺れていた。
「あの青い花……やたらとあちこちで見かける気がするんだけど」
青い色の花というのは、そう多くはない。
そのせいで他の花よりも目に付くだけなのかもしれないが、 それにしてはよく見るような気がした。
少なくともトランやデュナンでは一度も見たことが無い種類だ。
呟いてから、ふと妙な視線を感じた。
アルベルトが何故か驚いたような顔をして、こちらをじっと見ている。
ルックは眉を顰めた。
「……なに? 僕はなにか変なことを言ったか?」
「あ、いえ」
アルベルトは気を取り直すように、頭を振った。
それからもう一度、花壇に目をやりながら答える。
「あれはアオユリソウ、通称リリー・ブルーと呼ばれる花ですね」
「へぇ……リリー・ブルーねぇ」
ルックは自分からその話を始めておきながら、素っ気無く吐き捨てる。
そのうえ。
「それにしても君が花の名前に詳しいなんて意外だね。似合わないよ」
クスクスと笑いながら、馬鹿にしたような口調で付け加えた。
しかしアルベルトはそんな子供染みた挑発など気に留める様子もなく、ただ訝しげな視線だけをルックに送り続ける。
「あの……」
「うん?」
「あの花、本当にご存知無かった?」
「ああ、知らなかったけど」
「一度も見たことがない?」
「くどいな。知らないって言ってるだろう」
「……」
アルベルトは口元に拳を当て、再び黙り込む。
花の名前など知らなくて何が可笑しいのかと、ルックは少しばかり腹を立てた。
しかしルックは知らなかったのだ。
アルベルトの驚きが、ハルモニアに住む者としては至極当然のものであるということを。

リリー・ブルーはハルモニアの至るところで見ることが出来る花だ。
気候や風土が合っているのだろう。
寒さや乾燥にも強く、世話の手間がかからないため家の庭先で育てている人も多い。
だからどんなに幼い子供でも、この花の名前ぐらいは知っているのが普通だ。
更に言うならば、ハルモニアでは荒れた様子や状況を説明するときに、 『リリー・ブルーでさえ咲かないほどの』という例え方があるぐらいなのだ。
要するにそれほど何処にでも咲いている、ポピュラーな花なのである。

だからアルベルトには信じられなかった。
この国で生まれ、たとえ僅かな間でもこの国の民として生活をしていたにも関わらず、 リリー・ブルーを見たこともないなど考えられないことだった。
ルックがハルモニアで過ごした数年間について、アルベルトは詳しい話を聞いたことはない。
けれどこれで聞かずとも、簡単に想像がついた。
彼がこの国でどんな生活を送っていたのか、どんな扱いを受けていたのか、 きっと話すほうも聞くほうも不快になるようなものだったに違いない。
考えるうちに、アルベルトは無性に腹が立ってきた。
「……ルック様」
「なんだ」
「参りましょう」
「は?」
アルベルトは椅子を鳴らして立ち上がると、ルックの側へ回り、強引に腕を引いた。
突然のことにルックは抵抗も空しく、引き摺られるようにして席を立たされる。
「ちょ、ちょっと待て! どうしたんだ、急に」
「ここから少し行ったところに、あの花の群生地があります。そこへ行きます」
「なんの為に?!」
「リリー・ブルーを知らないなどと……納得いきません」
「訳の分からないことを言うな! 手を離せ!」
アルベルトはぴたりと足を止め、ルックを見つめる。
その真剣すぎる眼差しに、ルックは一瞬言葉を失った。
「離しません」
「……」
断言して、アルベルトはますますルックの腕を強く握り締めた。
何を言っても聞きそうにない。
ルックは溜息をついた。
「……分かったから、少し手を緩めてくれ。痛いよ」
「……」
アルベルトは素直に腕から手を離したが、そのかわりに今度はルックの指先をきつく握り締めた。
ルックはアルベルトを見上げる。
「その場所まで、ここからどれぐらい掛かる」
「三、四十分ほどかと。ああ、あなたが転移の魔法を使ってくだされば一瞬で着くことも出来ますが」
「……」
アルベルトが意地悪く笑う。
ルックは諦めて、もう一度溜息をついた。

辿り着いたのは山並を背にした、緩やかな傾斜を持つ草地だった。
クリスタルバレーからそう遠くない場所に、こんな長閑な風景があることにルックは驚いていた。
二人は手を繋いだまま、爽やかな風の吹く草地をしばらく歩いた。
「……御覧下さい」
アルベルトの言葉に前方を見ると、長く続く斜面に緑と青の美しい模様が描かれている。
よく見れば生え変わったばかりの若草の合間に、さっきの青い花が幾重にも咲いて揺れていた。
ルックはその光景に心奪われ、気がつくとアルベルトの手を離れて、ふらふらと前に歩み出ていた。
「……これが…………」
風が吹く度に、青い花と緑の草が一斉に同じ方向にたなびく。
さやさやと聴こえる微かな音は、釣鐘の形をした花びらがまさに鐘を鳴らしているかのようだった。
慎ましく、静かで穏やかな自然の美しさが、そこにはあった。

「……ありがとう」
不意に、聞き違ったかと思うような言葉をルックが呟いた。
振り向かないまま、更に続ける。
「見ることが出来て……良かったと、思う」
「……」
アルベルトは無言でルックの後姿を見つめていた。
彼にはまだ、見たことのないものがこの世界にたくさん残されている。
それなのに神は何故、まだ見なくても良いものばかり先に彼に見せてしまったのだろう。
アルベルトは腕を回し、ルックの体を背中から抱き締めた。
「……どうした?」
「あなたがらしくないことを仰るので、私もらしくないことをしてみようかと」
馬鹿、と苦笑交じりに言いながら、ルックはアルベルトの腕に手を重ねた。
それから二人は長い間そこに立って、風に揺れる青い花を見つめていた。



【アオユリソウ】
別名:リリー・ブルー。
ユリ科の多年草。
花期は4月〜6月。
草丈は20〜30センチほどで、
青紫色をした釣鐘形の花を咲かせる。
寒さや乾燥に強く、日当たりにさえ
気をつけていれば育てるのは比較的簡単。

- end -

2003.03.25


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