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仮面を外す指先が微かに震えているのを、アルベルトは見逃さなかった。
戒めから解放された彼は、頭を大きく振って髪を後ろに跳ね除ける。
しかし乱れた前髪は、汗ばんだ額に残されたままとなった。
テーブルに置かれたその仮面は、彼にとって顔を隠すためだけのものではなかった。
成し遂げようとする事の大きさに対して、抱え続けている迷い。
そんな弱い自分を覆い隠し、悪鬼と成りきる為には必要な道具だったのだ。
人では無いと言いながら、人の命を奪うことにこれだけ恐怖を感じられるのは幸せなことだろうとアルベルトは思った。
それは彼の歩んできた人生が、絶望だけに満たされたものではなかったという証拠でもある。
それでも彼は全てを破壊することを選んだのだ。
その選択が彼の弱さから出たものなのか、強さから出たものなのかは解らない。
ただ解るのは、彼にそれを選ばせた本当の理由だけだ。
恐らくは彼自身も気づいていないであろう、本当の理由。
それを思うたび、アルベルトはある衝動に駆られる。
組んだ両手に額を押し付けているルックの姿を見下ろしながら、アルベルトは低い声で問い掛けた。
「もしも……私がこの計画から手を引くと申し上げたら、あなたはどうなさいますか?」
ほんの気紛れだった。
人間とはとかく熟慮せずに言葉を発してしまう生き物である。
ルックは余程疲れているのか、胡乱な目つきでアルベルトを見上げた。
「……なんだって?」
まるで寝惚けているようなルックの声に、アルベルトは微笑を浮かべる。
口にしてから愉快な気分になった。
彼はなんと答えるのか。
もう一度尋ねる。
「今ここで、私がこの計画から離脱すると申し上げたらどうなさいますか?」
「……」
ルックは目を瞬かせる。
疲れているのに余計なことを考えさせないでくれという、彼の心の声が聞こえるようだった。
「……僕を裏切ると?」
「もしも、です」
アルベルトは念を押す。
ルックは漸く質問の意味を理解した様子で、大きな溜息を吐いた。
「訊くまでもないだろう。勿論」
「私を殺しますか?」
意図的に言葉を遮って、アルベルトははっきりとした口調で問い詰めた。
ルックは絶句してアルベルトを見つめる。
ぶつかり合う視線は微動だにせず、凍りついたような空気の中でアルベルトはルックの答えを待った。
「……ああ、殺すよ」
言いながら、ルックは目を逸らす。
「……そうですか」
こんなにも間を空けてしまっては、真実味に欠けるではないか。
その態度に満足したアルベルトは、声を出して笑いたくなった。
もしも、などと仮定することは本当に馬鹿げている。
有り得ない未来や、変えようのない過去を夢見る、愚か者の戯れに過ぎない。
それでもそんな愚問を発してみたくなったのは何故だろう。
深入りしすぎたのだろうか。
今まで知ることのなかった彼を、知ってみたくなったからだろうか。
否、そうじゃない。
仮面を外した彼を見ると、いつも不思議と意地の悪い気持ちが湧き上がってくるのだ。
彼が気を許す、その瞬間につけこみたくなるのだ。
「……で、そうしたいのか?」
ルックは窓の外を見ながら尋ねる。
いつの間にか降り始めた雨が、幾筋も窓硝子を伝っていった。
「いえ。私も命が惜しいですから。やりたい事はまだまだあります」
「……」
ルックが安堵したように見えたのは、アルベルトの自惚れだったろうか。
次第に激しくなってきた雨音が、部屋に満ちていた静寂を侵していく。
「だったら、僕が……」
ルックは透明な雫を目で追いながら呟いた。
「もしも……もしも、僕が……」
アルベルトは意外にも自分の胸がざわつきだすのを感じていた。
ルックがどんな戯れを口にするのか、興味があった。
しかしどんなに待っても、その先の言葉は出てこなかった。
「……もしも、なんです?」
待ちきれずに言うと、ルックは我に返ったように目を見開いた。
「いや、なんでもない」
「狡いですね。何を言おうとしたのです?」
アルベルトはルックに近づき、テーブルに手をついて顔を寄せる。
吐息さえも、掛かる距離だ。
「煩い。もういいんだ」
「良くありません。気になります。仰ってください」
「断る。もうこの話は終わりだ」
ルックは気まずそうな顔で、外を眺め続ける。
アルベルトは彼の視界に入るため、わざと窓辺に立った。
外は既に白く煙っている。
無数に落ちてくる銀の針が、柔らかな大地に突き刺さっては消えていく。
けれど硝子の向こう側の方が余程、この部屋よりは暖かそうに感じた。
「……構いませんよ。聞かずとも想像はつきます。あなたのそんな顔を見ればね」
「……!」
ルックの頬に朱が差す。
図星か―――。
多くの命を奪うには優しすぎる彼を前にして、アルベルトは苦笑した。
「黙ったのは正解ですね。たとえ戯言でも、口にしない方が善いこともありますから」
「……出て行ってくれ」
アルベルトは小さく肩を竦め、主の命令に従った。

しかし安堵していたのは寧ろ、アルベルトの方だった。
彼の問いに対して答えたくなかった。
考えたくなかった。

ルックがどんな道を選ぼうとも、彼と共に生きるという選択肢はアルベルトには無い。
もしも彼が仮面を脱ぎ、全てを諦めて逃げ出したとしても、今ある地位や立場を捨ててまで彼を追うことなど出来るはずがないのだ。

彼の魂を救えるのが自分ではないこと。
それを思い知るのは、もう少し後にしたかった。

- end -

2004.10.24


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