cry for the moon
指定された宿に漸く辿り着いたのは、もう真夜中を過ぎた頃だった。
藍色の空に浮かぶ月は、クリスタルバレーを発ったときに比べ、だいぶ西へと傾いている。
こういう時だけは、転移術を持ったあの胡散臭い連中が羨ましい。
すっかり予定を狂わせてくれた長老共の下卑た顔を思い返して、アルベルトはほんの僅かに顔を顰めた。
宿の者は既に休んでいるようだった。
灯りの消えた酒場には、安物の酒と油の匂いが漂っているだけだ。
田舎の宿だ、部屋はいくらでも空いているだろう。
適当に使っておいて、明日の朝に金を払えば文句もあるまい。
階段脇に仄かに燈る灯りだけを頼りに、勝手に二階へと上がる。
二階の廊下は一階にも増して闇を濃くしていた。
だから、その暗がりの中に幽霊のように浮かび上がっている白い人影が、
見知った人間であると分かるのに暫く掛かった。
「……何をしている?」
アルベルトが声を掛けると、その影がゆらりと揺れた。
こちらを向いたのだろう。
抑揚の無い声が答える。
「アルベルト……。遅かったのですね」
アルベルトの問いは無視された。
セラは再び扉の方を向いて俯く。
彼女の手には、水の入ったグラスが握られていた。
「……」
いったい何をしているのか。
もう一度同じ質問を繰り返そうとしたとき、
静寂の中、微かに何かが軋むような音が聴こえてきた。
アルベルトはセラのすぐ傍に立ち、耳を澄ませる。
その音は、確かに目の前にある扉の奥から聴こえてくるのだった。
物音ではない―――人の―――呻き声?
「アルベルト……」
いつのまにかセラは、生気の無い瞳でアルベルトを見上げていた。
そして手にしていたグラスを押し付けるように差し出す。
「ルック様を……お願いします……」
「……何故、俺に頼む。お前が自分で行けばいい」
「……」
セラは目を伏せ、力無く首を振る。
二人が不自然なまでに一定の距離を保とうとしていることには、アルベルトも気がついていた。
彼女のルックに対する妄信的な言動は、間違いなく忠誠以上の特別な感情があることを示していたし、
ルックもそれを分かっているはずである。
しかしこの世界の破壊を一番に望む彼にとって、
そういった感情は邪魔にしかならないことを彼女は承知しているのであろう。
無論、アルベルトにとっては二人が互いにどんな想いを抱いていようと、
なんの興味も関心も無かったのだが。
だからグラスを受け取ったのは、二人に対する同情からではない。
興味があるとすれば寧ろ、ルック個人に対してだろう。
その自覚はあった。
セラは僅かに頭を下げ、隣りの部屋へと戻っていった。
アルベルトはひんやりと冷たいドアノブを掴むと、出来るだけ音を立てぬようにゆっくりと回した。
何故か部屋のカーテンは半分しか閉められていなかった。
その半分の窓からはちょうど傾いた月が覗き、古びた木の床に蒼白い光を落としている。
夜陰と月光の静かな色合いの中、それに似つかわしくない、苦しげな呻き声が時折空気をかき混ぜる。
アルベルトは中央にあるテーブルにグラスを置くと、ベッドの脇に立った。
そこに横たわる男の顔は、苦痛に酷く歪んでいた。
月の光に半分だけ照らされた額には、うっすらと汗が滲んでいる。
ぎゅっと寄せられた眉と、きつく閉じられた瞳。
荒い呼吸の合間に、喉の奥から漏れる掠れた声。
乱れたシーツの端を握り締め、何かから逃れようと時折首を振っては、
乾いた音を立てて髪が枕を打つ。
アルベルトはただその様子を、腕組みしながらじっと見下ろしていた。
滑稽な姿だ―――と思いながら。
彼を苦しめているものを想像してみる。
紋章の見せる世界の終焉とやらか、これから犠牲になる無数の命のことか、
それとも既に流されてきた夥しい血を思ってか。
どれでもないのかもしれない、全てなのかもしれない。
初めてルックからこの話を持ち掛けられたとき、アルベルトは余りの無謀さを心の中で嘲笑しながら聞き返した。
「あなたはご自分の仰っていることの意味が、本当に分かっているのですか?」
ルックは答えた。
「勿論さ。冗談でこんなことを言えるはずがない」
「しかし」
「アルベルト、僕はね」
そのとき、ルックは笑っていたのだ。
「僕には―――失うものなんて、何もないんだよ」
心の底まで氷りつくような笑みだった。
紋章の破壊が実現すれば、ここら一帯はただの荒野と化すはずだ。
そうなればハルモニアで得ようとしている地位など、なんの意味もなくなる。
それでもルックに加担する気になったのは、
この途方も無い計画は恐らく成功しないだろうと予想したからだ。
勿論、取引を受けたからには裏切りを働く気など毛頭無い。
シルバーバーグの名に賭けても、彼の望む最良の状況を確実に用意するつもりだ。
しかしそれをしても尚、この計画は失敗するだろうと―――アルベルトは思ったのだ。
最後の仕上げをするのはあくまでもルック自身であり、
自分に出来ることはそこに辿り着くまでのお膳立てだけなのだから。
軍師とは、策を巡らせるのが仕事ではない。
人の心理、心を読むことだ。
失うもののない者ほど脆いのだと、彼は知らない。
震えながら、ゆっくりと、シーツの端を握り締めていたルックの手が空を彷徨う。
何かを掴もうとしているのか、縋ろうとしているのか、そんな頼りない腕。
「……」
本当なら、神官将としての立場を既に失ってしまったルックに、これ以上力を貸す義理はなかった。
それでもまだここにいるのは、興味があるからだ。
人の力がどれほどのものなのか。
自分は人ではないと言い切るこの男が、何処に辿り着くのか。
この世界を真に動かしている力は、いったいなんなのか。
闇の中に踊る白い指先を、アルベルトはじっと見つめる。
何を求めている?
その指先は、何を―――。
「―――」
そのときルックの唇が、途切れ途切れの言葉を紡いだ。
腕を強く引かれた気がした。
心臓が破れんばかりに鳴っている。
身体中が冷たい。
自分自身の荒い呼吸が聞こえる。
見開いた目を動かすと、薄暗い視界の中に燃えるような赤い髪があった。
「―――アルベル、ト?」
喉がひりひりする。
突然離された腕が、シーツの上にぽとりと落ちた。
手首が少し、痛い。
「……水をお持ちしました」
「あぁ……」
溜息のような返事を返して、ベッドの上に身体を起こした。
寒気がしたのは、汗を掻いているせいだった。
「どうぞ」
目の前に差し出されたグラスを受け取り、中の水を一息に喉の奥へと流し込む。
最後の一滴まで飲み干すと、漸く安堵したように、大きく息を吐いた。
「……落ち着かれましたか?」
「ん? あぁ……」
何故、アルベルトがここにいるのだろう。
ふと疑問に思い、顔を見上げると、アルベルトはそれだけで尋ねようとしていることが分かったらしい。
「部屋の外まで、魘されている声が聞こえていましたので」
「……」
恥じ入るように俯く。
「では、私はこれで」
いつもの事務的な態度で頭を下げ、アルベルトは背中を向けた。
その背中を、月の光が斜めに照らした。
「……待って」
我ながら情けない声だった。
闇の中、足音が止まる。
「僕は……何か、言わなかったか……?」
「……」
アルベルトは暫く無言だった。
張り詰めた空気。
「……いえ、なにも」
「……そうか」
アルベルトは一礼して部屋を出ていった。
何故嘘をついたのか、アルベルトにもよく分からなかった。
彼の唇から零れた、聞きなれない人の名。
気がつくと、あの細い手首を掴んでいた。
冷たかった。
(―――滑稽なのはどちらだ?)
月光に照らされた震える指先を思い返す。
そう、好きなだけ苦しめばいい。
どんなに手を伸ばしても、それは決して手に入らないのだろうから。
- end -
2002.11.28
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