stray sheep
足元で嫌な水音がした。
見回すと、俺は血溜まりの中に立っていた。
血は胸の辺りから止め処なく流れていたが、痛みは感じなかった。
あの独特の錆びた鉄のような匂いもしない。
するのはただ、ラベンダーの香りだけだ。
辺りは暗くて、ここが何処なのかは分からない。
傍に女が倒れていることに気付く。
長い髪が血溜まりに広がってゆらゆらと揺れていた。
真っ赤に染まったうつ伏せの背中をぼんやりと見下ろしながら、
もしかしたらこの血は女が流したものなのかもしれないと思った。
特別な感情は湧かなかった。
俺は女を抱き起こす。
しかし腕に抱いた途端、それは別人へと変わった。
―――九龍。
声にならない叫びが、喉を引き裂いた。
胸糞悪い夢だった。
目が覚めたときには鈍い頭痛がしていて、俺は暗闇の中で何度か溜息を吐いた。
それからどれぐらいの時間が経ったのだろう。
もう一度眠ろうと試みるものの、目を閉じると瞼の裏に赤い色が広がる。
その度に舌打ちをしては寝返りを繰り返すだけで、貴重な睡眠時間は無駄に費やされていった。
アロマを吸おうかとも思ったが、今はあの香りが逆効果になりそうで、手に取る気にはなれなかった。
ふと思い立ち、馬鹿馬鹿しいのを承知で羊を数えてみる。
羊が一匹。
羊が二匹。
けれどそれも八匹目で挫折した。
我ながら少なすぎると思った。
そもそもどうして、羊である必要がある?
単純作業が眠りを誘うというのなら、牛でも亀でもいいはずだろう。
そうだ、こんな時こそカレーはどうだ。
カレーが一杯。
カレーが二杯。
カレーが三杯。
畜生、腹が減ってきたな。
これじゃあ、かえって眠れやしない。
……くだらない。
くだらなすぎる。
これでは、どこぞの馬鹿の思考回路と変わらないじゃないか。
こんなところにまであいつの影響が及んでいるのかと思うと、情けなくて泣きたくなった。
諦めて、起き上がる。
外はまだ暗い。
枕元に置いてある携帯電話を取って開くと、
ディスプレイの明かりが煌々と目に突き刺さった。
午前2時47分。
それはまるで習慣のように、指先が勝手に動いた。
葉佩九龍。
電話番号。
メールアドレス。
こんな時刻にどうしようというのか。
あいつは今頃、アホ面を晒して熟睡しているに違いない。
いつもの夜遊びで疲れきった体を投げ出して。
その様子を想像するとムカついた。
散々夜遊びに付き合わされて、俺も同じように疲れきっているのに、俺だけがこうして眠れずにいるのは不公平じゃないか?
それに、あの夢―――。
せめてあそこで九龍が出てきさえしなければ、俺はそのまま眠り続けることが出来たはずなんだ。
九龍の電話番号を呼び出して、通話ボタンを押す。
無機質な呼び出し音。
ワンコールだけ鳴らして、俺はすぐに電話を切った。
どうせ起きるはずがない。
やがてディスプレイの明かりが消え、部屋は再び闇に包まれた。
ノックの音が響いて、弾かれる。
ドアの方向を見たまま携帯を閉じ、無意識に息を潜めた。
もう一度、ノックの音。
俺はわざと時間を掛けて答えた。
「……開いてるぜ」
ドアが細く開いて、暗がりの中に九龍の顔が浮かんだ。
「甲太郎?」
「……なんだよ」
「なんだよ、じゃないだろうが」
九龍は部屋に入ってくると、俺が寝そべったままのベッドに腰掛けた。
スプリングが軋んで揺れる。
「どうした?」
言いながら、九龍は俺の髪をくしゃくしゃと掻き回した。
「やめろ」
俺はその手を払い除ける。
九龍の手は酷く冷たかった。
「眠れなかったのか?」
「……お前は寝てたんだろ」
「うん、まぁ」
「じゃあ、寝てりゃあ良かったんだ」
「よく言うよ。思わせぶりに一回だけ鳴らしておいて」
「……」
九龍がたったワンコールでも気付くに決まっていると、本当は分かっていた。
そして携帯に表示された発信者の名前を見れば、必ず俺の部屋に来ることも。
いったい俺は何がしたかったのか。
ああ、そうだ。
自分が眠れないから、あてつけに九龍も起こしてやろうと思っただけだ。
それだけだ。
それ以外の理由なんてない。
「なあ、よく眠れないとき羊を数えるといいって言うじゃん? あれ、なんでか知ってるか?」
知らねぇ、と答えながら目を閉じる。
視覚を遮ったことで、九龍の声が少しだけ近づいたような気がした。
「あれさ、羊はシープで眠るはスリープで発音が似てるからだとか、
シープって単数形と複数形が同じ形だから数えるのに楽だからとか色んな説があるんだけど、
なんにせよ英語圏での話なんだよね。だから日本語で数えても意味無いんだよ。
っていうか、眠れないときに本当に羊を数えたことのある奴ってどれぐらいいんのかな?
俺はあんまりいないんじゃないかと思ってるんだけど、甲太郎はどう思う?」
「……」
「甲太郎、聞いてんのか?」
「……あぁ、悪い。ちょっと、うとうとしてた」
「なんだよー」
わざとではなく、本当に眠気が襲ってきたのだ。
九龍のくだらない話と聞き慣れた声は、羊を数えるよりも余程効果があったらしい。
もう少しで眠れるかもしれない。
そう感じた矢先―――。
「まあ、いいや。じゃあ、寝ろよ」
そう言って、九龍が立ち上がった。
暗闇の中を遠ざかる気配に、俺は思わず口走っていた。
「もう、戻るのか?」
「え?」
「……」
「……」
馬鹿なことを言ったと、後悔しても遅かった。
これでは引き止めていると思われても仕方が無い。
案の定、九龍は調子に乗ってほざいた。
「もしかして、俺……誘われてる?」
「さっさと出てけ!」
深夜であることも構わず、俺は声を荒げて布団を被った。
気まずい沈黙が流れる。
九龍が立ち去る気配はない。
それから暫くして、布団がそうっと捲られた。
「お邪魔しまーす……」
「……」
隣りにでかい塊が潜り込んでくる。
なにもそこまでしてくれとは思っていなかったが、
かと言って蹴飛ばす程の気力もなかった。
眠りたい。
とにかく今は、眠りたかった。
「うー、寒っ」
「足、くっつけんな。冷てーんだよ」
「はいはい」
「……おい、落っこちんなよ」
「くっつきゃいいのか、離れりゃいいのか、どっちなんだよ」
「知るか」
無茶苦茶だ。
ベッドの中の温度が次第に高くなっていく。
背中に感じる体温。
その温もりにたゆたうように、俺は眠りについた。
- end -
2005.05.21
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