置き去りの恋


昼休みを告げるチャイムの音を聞いたのは、五分ほど前のことだったか。
扉の開く音がして、室内の空気が僅かに動く。
陽光を遮っていた白いカーテンが、視界の端で揺れた。
ベッドに寝転んだまま、脳裏を一瞬過ぎったのは不覚にもあの間抜けな笑顔だったが、俺はそれをすぐに打ち消した。
違う。
あいつがこんなに静かに入ってくるはずがない。
毎度大声で俺の名前を呼ぶせいで、いつも保険医に怒られているのだから。
衝立の向こうから覗いたのは、これもまた見慣れた青白い顔だった。
「あ、皆守君」
「よぉ」
俺と同じくここの常連である取手は、辺りをキョロキョロと見回した。
「ルイ先生は?」
「さぁな。気付いた時にはいなかったぜ。カウンセリングか?」
「う、ううん。そうじゃないんだけど……ちょっと話を聞いてもらいたくて」
「ふぅん……」
考えてみれば、お互いしょっちゅう顔を合わせていた割りには、 こんな風に気軽に言葉を交わすようになったのはつい最近のことのような気がする。
勿論、きっかけになったのはあの男だ。
「まあ、待ってりゃ、すぐに戻ってくるんじゃないか?」
俺が言うと、所在無さげにしていた取手はホッとした顔つきで笑った。
「うん、そうだね。そうするよ」
取手は空いていた隣りのベッドに腰掛けた。
それきり沈黙が続く。
なんとなく苦手な空気を感じたのは、取手が何かを話そうとしてタイミングを窺っているのが分かったからだ。
俺は面白くもない天井を眺めたまま、その時を待った。
「あ、あのさ」
「ん?」
次に出てくる単語は容易に想像が出来た。
取手は何故か俯いて、はにかむようにそれを口にした。
「はっちゃんの、ことなんだけど……」
ビンゴ。
しかしなんだってあいつの名前を出すのに、顔を赤らめる必要があるのか。
分からん奴だ。
「なんだよ。九ちゃんがどうした」
「うん、その……」
取手は口篭る。
話したいのか話したくないのか。
言い出しづらいということは、少なくとも楽しい話ではないのだろう。
それだけで気が重くなる。
思わず溜息を吐きそうになったとき、取手は漸く先を続けた。
「はっちゃん……ここでの仕事が終わったら、またすぐ何処かに行っちゃうのかな?って思って……」
「……」
成る程、墓の探索は確実に進んでいる。
この學園での九龍の仕事が終わる日も、そう遠くはないはずだ。
あいつにかなり心酔している(ように、俺には見える)取手は、その日が来ることを恐れているのだろう。
取手だけじゃない―――誰もが、やがて必ず訪れる九龍との別れの日を想像し始めている。
ただ、誰もまだそれを口にしていなかった。
口にすることで、否が応にも確認し、覚悟せざるを得なくなる。
取手が口篭ったのも、その所為だろう。
だが事実は事実だ。
曲げようもない。
だから俺は答えた。
「そりゃ、そうだろうな。次の仕事が決まれば、今度はそこに行くんだろう。この學園に来たときと同じように……な」
他に言いようが無かった。
けれど見る見るしょんぼりとしていく取手を前にして、俺はつい苦笑してしまった。
羨ましいほどの素直さだ。
励ませるものならそうしてやりたかったが、生憎俺はそういう言葉も態度も持ち合わせていない。
取手は話す相手を間違った。
保険医が戻ってくるまで、待っていれば良かったものを。
俺は頭を掻いた。
「その……なんだ。落ち込んでもしょうがねぇだろ。初めから分かってたことだ」
「そうだけど……寂しくなるよね……」
「八千穂あたりは確実にぴーぴー言うだろうな。今から思いやられるぜ」
「……そうかな」
「あ?」
取手は俺を上目遣いに見ながら言った。
「僕は皆守君が一番寂しがるんじゃないかと思ってたんだけど……」
「なッ―――」
ぎょっとした。
俺はそんな風に見られているのかと。
「なんで、俺が」
「だって君が一番、はっちゃんの近くにいるじゃないか。最初から、今まで、ずっと」
「だからって、別に」
好きで傍にいるわけじゃない。
そう言おうとして、躊躇った。
そんな言い訳、多分こいつには通用しない。
「……誰が寂しがろうと、どうせあいつはいなくなるんだよ」
「……」
俺は小さく舌打ちしてベッドから降りた。
取手を少しだけ恨む。
確認し、覚悟させられたのは、俺も同じだったからだ。
深く考えないようにしていたのかもしれない。
酷く苛立つ。
「甲太郎ー!」
「!」
手を掛けようとしていた扉が外側から開いて、話題の主が現れた。
いつも通り、呑気な面だ。
「購買混んでてさ〜。カレーパン、買ってき」
「取手がお前に話したいことがあるらしいぜ」
え?という声を二つ、背中で聞きながら保健室を出た。
午後の授業は、フケることに決めた。

「なんで、嘘ついた?」
夜になって俺の部屋にやってきた九龍は、咎めるようにそう言った。
「何のことだ」
「鎌治が俺に話しがあるなんて、嘘だったじゃないか」
「嘘は言ってないぜ。お前のことを気にしてたからな」
納得いかない表情で、九龍はベッドに腰掛ける。
横になっていた俺が「テレビが見えない」と文句を言うと、「そんなもの見なくていい」と勝手にスイッチを切った。
横暴な奴だ。
仕方なく俺は九龍の背中を横目に、アロマに火を点けた。
「……鎌治、なんだって?」
「聞かなかったのか?」
「言わなかったよ。なんにもない、って」
「お前が學園を去るときのことをさ」
「……」
紫煙が天井に向かって、ゆらゆらと昇っていく。
九龍は小さく溜息を吐いて、俺の方を向いた。
「甲太郎はさぁ、平気なの?」
「何が」
「だから、俺がいなくなっても」
「……平気じゃないって言ってほしそうだな」
「ふふふ」
九龍は含み笑いをする。
それから不意に何処かしら諦めたような表情になって、目を伏せた。
「俺は―――平気じゃないよ」
「……おい」
ベッドが微かに軋んだ音を立てた。
「ここを去るときのことを考えると、今から寂しくて堪らなくなる。出来るものなら、ずっとここにいたいよ。 皆と……甲太郎と一緒にいたい。お前の傍にいたいよ」
「―――ッ」
俺は九龍の腕を強く引いた。
バランスを崩した体をシーツに押し付け、両腕の自由を奪う。
驚いている顔を見下ろしながら、俺は九龍を怒鳴りつけた。
「ふざけるな……!」
怒りをぶつけずにはいられなかった。
けれど九龍もまた、その目に怒りの感情を浮かべていた。
「分かってるよ」
「分かってない!」
「分かってるって言ってんだろ!」
「この……!!」
思わず振り上げた腕は、九龍に掴まれた。
行き場を失くした怒りが頭の中をぐるぐると廻る。
どうしてそんなことが言えるんだ。
お前にその権利は無いはずだ。
「分かってるよ。俺はこんなこと言っちゃいけないんだろ? 分かってる」
そうだ。
お前は笑いながら、ここに来た時と同じように、あっさりと消えるべきじゃないか。
それを寂しいだと?
傍にいたいだと?
冗談じゃない。
そんな風に言うな。
これ以上、俺を掻き回すな。
「でもそれが俺の本音だ。俺はお前に嘘は吐きたくない」
「……」
「……甲太郎」
九龍の手が俺の腕を離れる。
「俺は、行くよ」
冷たい掌が、俺の頬に触れる。
「いつか、俺は行く。他に選択肢は無い。それでも俺は甲太郎に、行くなって言って欲しいんだ。 言われても行くんだけど、そう言ってほしい。寂しいから行くな、傍にいろ、って言ってほしいんだよ」
今にも泣き出しそうな笑顔で、九龍が言う。
「俺は卑怯者だから」
「……その通りだな」
「うん」
本当に卑怯な奴だ。
そうやってお前は俺に「行くな」と言わせなくする。
初めから言うつもりもなかったけれど、とどめを刺されたということか。
だったら、俺の答えはひとつだ。
「お前なんていなくなっても……俺には関係ねぇよ」
「うん。それなら良かった」
「……手、離せ」
「嫌だ」
「俺に触るな」
「嫌だよ」
「……」
九龍は俺の頬に触れた手を決して離そうとはしなかった。
そして俺もそれを無理矢理引き剥がすことは出来なかった。

お前が目の前から消えたとき、またあの日常が戻ってくる。
この牢獄で、刻が流れていくのをただぼんやりと眺めて過ごす日々。
俺はアロマを吹かし、青空を見上げながら、掴み切れないまどろみの中を漂う。
そうして俺は俺の中に生まれた何かを殺して、自由なんて幻だと嘯くのだろう。
お前に他の選択肢が無いように、俺にも他に術は無い。
俺もお前と同じ、卑怯者だから。
それで、いいんだ。

- end -

2005.05.07


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