捩れた答え
テレビからは怪しい健康器具を過剰に褒め称えて買わせようとする、必死な女の声が流れていた。
ベッドの上で聞いていたそれが次第に遠ざかっていく。
こうしてまどろんでいる時が一番幸せだ。
寧ろ、それ以外に幸せなんてものを感じるときが無い。
目覚めていれば鬱陶しいことしか起きないし(最近は特に)、眠りにつけばロクな夢を見やしないからだ。
しかし幸せな時間など長くは続かない。
俺が今にも眠りに落ちようとしていたとき、それは突如断ち切られた。
「甲太郎! ちょっとこれ、見て見て見て」
ああ、どうして俺は部屋の鍵を掛けていなかったんだ。
一生の不覚。
飛び込んできた九龍がベッドの縁に勢いよく手をついた所為で、俺の体はがくんと揺れた。
「ねぇ、ちょっと。見てってば。起きてるんだろ?」
「……」
眠ってもいないが、起きてもいない。
お前が来るのがあと一分遅ければ、完全に寝ていたはずなんだ。
しかしそんな文句を言うことすら億劫で、仕方なく重い目蓋を僅かに引き上げてみた。
九龍は俺の上に覆い被さるように身を乗り出して、目の前に何かを突きつけている。
「あぁ……?」
それはこの学園の生徒なら誰もが所持している、生徒手帳だった。
開いてあるページには、今までに九龍が他の連中から貰ったプリクラがずらりと貼ってある。
それがどうした。
俺の安眠を妨害してまで見せたかったものがこれか。
反応せずにいると、九龍が焦れたようにページの一角を指差した。
「ほら、これこれ。見てよ」
「……!」
その顔には、恐らく他の誰よりもお目に掛かっているはずだ。
柄にも無く気取って微笑んでいる保健医の写真に、さすがに眠気が引いていった。
「とうとうあの女まで丸め込んだのか……」
俺は呆れていたが、九龍は誇らしげに笑っている。
「失礼な言い方だなあ。人望があるって言ってよ」
どっちでも、どうでもいい。
しかし雛川がこいつの夜遊びに協力すると言い出したときには、それほど驚きもしなかったが、今回ばかりは少々意外だった。
あの高慢なカウンセラーが、自らの体を張ってまで動くとは相当なことだ。
白衣と肉体労働は両極にあるものだと思っていたのは、俺だけだったのだろうか。
それもやはり九龍の言うように人望のなせる業なのだとしたら、不本意ではあるが尊敬に値するだろう。
俺は九龍の手から手帳を取り上げて、その間抜けな写真の数々をまじまじと眺めた。
「だいぶ集まったよな~。本当にありがたいことです」
「……白々しい言い方だな」
「なんで! 本気で言ってるのに」
「フン。どうだか」
ここに並んでいる連中は皆、自ら望んで九龍に協力することを誓った奴ばかりだ。
学園に来てからの僅かな時間で、これだけ人の心を掴むことが出来たのは流石と言わざるを得ない。
俺自身も九龍の人柄や仕事振りを見るにつけ、こいつに惹かれていった人間の一人だ。
だが、どうしようもなく苛立つ。
この中に自分の間抜け面が並んでいることが許せなかった。
俺はこの連中とは違う。
俺は九龍を―――《転校生》を、監視するためにこれをやったんだ。
だから俺の写真がここに貼られているのは相応しくない。
手帳に爪を立て、俺が自分のプリクラを剥がそうとしていると、九龍が目敏くそれに気づいた。
「ちょっ、なにやってんだよ!」
「うるさい。俺が俺のものをどうしようと勝手だ」
「貰った時点で俺のものになったんだよ! やめろっての!」
ベッドの上で揉み合いになる。
そのとき俺の爪がうっかり、九龍の手を引っ掻いてしまった。
「痛っ」
わざとではない。
しかしその事態に気を取られた瞬間、九龍がにやりと笑って俺の手から素早く手帳を取り上げた。
「残念でした。今更返せって言っても、もう遅いんだよ」
「チッ……」
俺がそれをやった理由も知らずに、バカな奴だ。
今剥がされていたほうがマシだったと、後で思い知ることになるというのに。
それにこれだけたくさんあるんだ、一枚ぐらい減ったってお前にとってはどうってことないはずだろう。
それでも九龍はズボンのポケットに大切そうに手帳を仕舞い込むと、俺の顔を覗き込んできた。
「……なんで、剥がそうとなんてするんだよ?」
拗ねたような声を、俺は無視した。
「答えろよー」
「ぐっ!」
あろうことか九龍は俺の上に跨ると、両手をついて顔を近づけてきた。
「ふざけるな! 重いんだよ、どけ!」
「答えるまでどかないよ~」
見下ろしてくる視線から、目を逸らす。
アロマが吸いたかったが、この体勢では身動きが取れない。
顔がますます近づいてくる。
俺はアロマが吸いたいんだ。
吸わせろ。
一刻も早く。
九龍の吐息がかかる。
分かった。
お望みどおり、答えてやるよ。
だから、どけ。
そして俺は言った。
「……お前が嫌いだからだよ」
ゆっくりと九龍に視線を戻す。
九龍が、薄く笑った。
「……!」
ためらいなく落ちてきた唇に、唇を塞がれる。
その冷たくて柔らかな感触に流されまいとして、俺は歯をくいしばった。
鼓動が早鐘を打ち始める。
なにをする。
ふざけるな。
息をさせろ。
死ぬ。
押しつけられていた唇が漸く離れると、俺は大きく息を吐いて九龍を睨みつけた。
「……どういうつもりだ」
「甲太郎が嘘つきだから」
「俺は嘘なんかついちゃいない」
「嘘だよ」
「自惚れるのも大概にしろ」
「甲太郎もな」
「……」
どうしてそんなことを言われなきゃならない。
俺が自惚れている?
いったい、何に。
睨みつけていた九龍の口元からは笑みが消え、一瞬だけその顔が歪んで見えた。
「……さて、と。俺も寝るかな」
九龍は頭を掻きながら呟くと、跳ねるようにしてベッドから降りた。
「じゃな、甲太郎。邪魔して悪かったよ。おやすみ」
どこぞのオカマを彷彿とさせる投げキスをかまして、九龍は部屋から出て行った。
そして俺は放り出される。
なんだったんだ、いったい。
テレビからは甲高い女の声が未だ流れ続けていたが、頭の中までは入ってこなかった。
言われなくても分かってるさ。
俺は嘘つきだ。
本当はお前が欲しくて欲しくて堪らない。
お前が持つ自由の翼をもぎ取って、あの薄暗い墓の下に閉じ込め、俺だけのものにしたいと思っている。
だけどお前は絶対に、俺のものにはならない。
今の俺には、お前を手に入れる資格さえもない。
傍にいればいるほどにお前の存在は遠ざかり、俺は自分が嘘つきで卑怯な臆病者であることを思い知る。
お前が嫌いだ。
お前を嫌いになりたい。
そうでなければ嘘つきな俺は、苦しすぎて息も出来ないんだ。
- end -
2007.01.15
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