傷痕
「はぁ〜、今日は間に合った……」
九龍の間抜けなほど幸せそうな声が、湯気の中で反響する。
決して広いとも綺麗だとも言えないような風呂だが、夜遊びの疲れを癒すには充分だった。
唯一の不満は夜10時までしか入れないということか。
あの辛気臭い場所から戻ってきて、そのまま寝るのは結構キツイ。
九龍も出来るだけ風呂に入れる時間に戻ってきたいと思っているようだが、
そうも言っていられないことの方が多かった。
ただ今夜は八千穂が一緒だったこともあって、気を遣って切り上げたらしい。
あんなのでも一応女扱いしている九龍は偉いと思った。
「やっぱり風呂はいいよな〜……」
浴槽の縁から両腕を垂らしている九龍の横顔は、ほとんど眠りかけているようだ。
その腕から肩、背中へのラインをまじまじと眺める。
男の体に見惚れる趣味など無いが、
それでも綺麗な筋肉のついた体だと思ってしまう自分がなんとなく面白くなかった。
こうでなければ宝探し屋なんて職業は勤まらないのだろうか。
その後に目を奪われたのは、濡れた肌の至るところにある無数の傷痕。
大小新旧様々、治癒の過程で肉が盛り上がったままになり、見るからに痛々しそうなものもあった。
「お前……傷だらけだな」
「あぁ、そうだねぇ」
九龍はまるで人事のように言う。
「仕事柄しょうがねェのか」
「それもあるけど……。俺、ガキの頃から喧嘩ばっかしてたからね。半分ぐらいはそういう傷」
「そうなのか?」
九龍の意外な告白に、俺は興味を持った。
こいつに関して俺が知っていることと言えば、母親は既に鬼籍に入っていること。
宝探し屋だった父親は現在行方不明なこと。
それぐらいだ。
俺は僅かに身を乗り出した。
「うん。小さいときから親父に連れられて色んな国を転々としてきたからさ。
言葉とか文化とか、覚えた頃にはまた次の場所で。
だからしょっちゅうからかわれたり、イジメられたりしててさあ。
そのうち自分の身は自分で守らなきゃいけないんだって悟っちゃって、
それからはもう喧嘩三昧の日々ですよ」
「へぇ……」
想像が出来なかった。
俺が知っている九龍は誰にでも人当たりが良くて、少なくとも喧嘩を売られるようなタイプじゃない。
たとえ売られてもギリギリまで買わないような、そんな奴だ。
確かに揉め事の中に自ら首を突っ込んでいって、それでも平気でいるようなところはあったが、
基本的には平和主義者だろう。
俺が驚いているのを察したのか、九龍はこちらに顔を向けて照れ臭そうに笑った。
「俺ね、昔はすっごいひねくれてたのよ。お前みたいに」
「失礼なことを言うな。俺のどこがひねくれてるんだ」
九龍はアハハと棒読みの笑い声をあげ、両手で湯を掬って顔を撫でた。
「愛想のあの字も無い奴だったよ。いっつも一人。
友達なんて作ってもどうせすぐに別れなきゃいけないし、だったらそんなもんいらねーやって」
「……」
急にアロマを吸いたくなった。
胸の奥で何かがざわざわと音を立て始める。
やめておけ、ともう一人の俺が警告を発している。
多分これからこいつの語ることは、俺にとって神経を逆撫でするような話だ。
解っているはずなのに、それでも聞かなければならないような気がした。
「……で、何がお前を変えたんだ?」
九龍は昔を懐かしむような、遠い目をして答える。
「気づいたからかな」
「何に」
「過ぎた時間は取り戻せないってこと」
「……」
俺は溜息を吐いた。
さっきこいつがしていたように、湯で顔を洗い流す。
九龍は話し続ける。
「変えられない過去を後悔するのは、もうイヤなんだ。
だから短い時間でも大切にしようって思うようになった」
お前にもあるのか。
後悔するような過去が。
まだ痛む傷痕があるのか。
それでもお前は前を向いて生きている。
俺のように目を逸らしたり、何かで誤魔化したりすることもなく。
ああ、そうだな。
お前は強いよ。
俺と違って。
半ば投げ遣りになって聞いていると、九龍は体ごとこちらに向き直って言った。
「俺がお前に積極的な理由が分かったか?」
―――そういうことかよ。
俺は全てを理解した。
お前が俺に暑苦しく纏わりついてくるのは、
一緒にいられる時間がそれだけ短いからだと言うんだな。
ふざけるな。
だったらそんなもん、俺はいらない。
下手に情がうつる前に、何処へでもさっさと消えちまえばいい。
それが優しさってもんだろうが。
予想通りの言葉は憂鬱を齎しただけで済んだというのに、
最後の余計なセリフが俺を最悪の気分にさせた。
当然言った本人はそのことを知る由も無く、呑気に鼻歌なんぞ歌ってやがる。
これ以上、こいつと面をつき合わせていたくない。
俺は怒りを堪えて、立ち上がった。
「あれっ、もうあがるの?」
「ああ」
「……なんか甲太郎、怒ってない?」
「怒ってねぇよ」
「嘘ー」
九龍は慌てて俺の後を追ってくる。
馬鹿野郎。
ついてくるな。
さっさと着替えを済ませ、濡れた髪も拭かず足早に浴場を出た。
「なあ、まだ寝ないなら後で俺の部屋来いよ」
「行かねぇ」
「じゃあ、俺が行く」
「来るな」
「なんでだよ」
「うるさい」
九龍を振り返ることもせず、自室に飛び込む。
机の上に置かれたパイプを咥え、急いでアロマに火をつけた。
あいつはこの學園に仕事で来ている。
仕事が終われば、いつまでもここにいる理由はない。
そんなことは百も承知だ。
それなのに何故、俺はこんなにも苛立っている?
馬鹿馬鹿しい。
どうしてくれる、九龍。
お前の所為だ。
身体中、表面も内側もチリチリと焼けるように痛む。
この痛みが全て傷痕として残ったなら、俺はお前にそれを見せ付けてお前を後悔させてやれるのに。
- end -
2005.01.06
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