3 days


*** 1st day ***

冬休みに入ったというのに、寮に残っている生徒は決して少なくない。
受験を控えた三年は別としても、一、二年の中にまで学園で実施される冬期講習なんぞを受ける物好きな奴らがいるからだ。
そしてまた、何の用も無さそうなのに居残っている人間もいる。
俺や、九龍のように。

全てが文字通り音を立てて砕け散ったあの日から、数日が過ぎた。
考えてみれば九龍が転校してきてからの三ヶ月間、 こいつとこれ程までにただダラダラと無為な時間を過ごしたことはなかったような気がする。
九龍は俺が寝転がっているベッドに凭れて、テレビを見ながら時々笑い声を上げている。
そして俺はそんな九龍を、斜め後ろからぼんやりと眺める。
平穏。
そんな単語が頭に浮かぶ。
この時間を無為と言い切ってしまうのは間違いなのかもしれない。
《墓》のことも、《生徒会》のことも、忘れようとしてきた《記憶》のことも、 何もかもを吐き出してしまった今となっては、少なくとも九龍を騙しているという罪悪感からは解放されたのだから。
もう、こいつに隠すことは何も無い。
それだけで、共に過ごす時間が今までとは全く違ったものに感じられるのだから世話が無かった。
そして俺はこの平穏を、何よりも手離したくはないとまで思い始めていた。
けれどそう上手くいくはずもない。
その時は一歩一歩確実に近づいてきていて、俺は真の平穏など簡単に手に入るものではないのだと思い知ることとなる。

テレビから流れる喧騒に混じって、軽快な電子音のメロディが鳴り響いた。
九龍は緩慢な動作で、手元に置いてあったH.A.N.Tと呼ばれるそれを開く。
「……」
壊れるものなどもう何も無いと思っていた。
しかしそのとき感じたのは、確かに何かが壊れていく気配だった。
まるで薄氷の上を歩いているかのような、冷たい不安が背中に広がる。
メールを読み終わったらしい九龍はH.A.N.Tを閉じ、それから大きく伸びをした。
「あーっ、そろそろ寝るかなぁ」
その口調はいつもと少しも変わらないものだったが、俺には何処か空々しく聞こえた。
時計を見ると、まだ十時にもなっていない。
数日前ならば、夜遊び真っ最中の時間だ。
「お前、昼まで寝てただろうが。もう眠いのかよ」
俺のつっこみに、九龍は不貞腐れた顔で振り返る。
「いいだろ。甲太郎なんていつだって眠いじゃん」
「俺はいいんだよ。これは体質みたいなもんだからな」
「うわ。なに、その勝手な言い分」
「うるせぇ」
九龍は大袈裟に肩を竦めながら、テレビのリモコンを手に取る。
電源が落とされると唐突に静けさが訪れ、エアコンの低いモーター音だけが微かに聞こえてきた。
俺は僅かに息を飲み、いよいよかと腹を括る。
「……なぁ、甲太郎」
なんだよ、と答えた声が少し掠れた。
けれど九龍が次に発したセリフは、俺の予想とは全く違うものだった。
「あのさ……今晩、ここで寝てもいいか?」
「……はぁ?」
俺の返事を待たずに、九龍はベッドによじ登ってくる。
覆い被さるようにして俺の顔の横に両手を突くと、 真剣な眼差しで俺を見下ろした。
「なぁ……いいよな?」
「……」
今までも何度か同じベッドで眠ったことはある。
部屋に戻るのが億劫だからとか、そんな他愛も無い理由だ。
けれど今回は違う。
熱を含んだ視線と、もったいぶった問い掛け。
俺だってガキじゃない。
それがただ単にこの場所で眠りたいという意味では無いことぐらい、すぐに分かった。
俺は苛立つ。
九龍が今言うべきことは、そんなことではないはずだ。
もっと大事なことがあるだろう。
どうしてそれを先に言わない。
「……なんだよ。何かあったのか?」
「いいよな? いいだろ?」
「おい、質問に答えろ。どうして突然そんなことを言い出す?」
「そりゃモチロン、甲太郎が好きだから」
「嘘を吐くな」
ムキになって問い詰める。
けれど九龍は薄い笑みを浮かべながら、ゆっくりと顔を近づけてくるばかりだ。
そんなことで誤魔化されるものか。
唇があと一センチで触れるという距離まで来たとき、俺は尋ねた。
「……今のメール、誰からだ?」
一瞬で強張る九龍の顔。
それだけで充分、答えになっていた。
俺達は暫く睨み合い、そしてとうとう九龍が諦めた。
ふっと力を抜き、苦笑して言う。
「……分かっちゃった?」
「当たり前だ」
内心、違っていればいいと思っていた。
俺はこんなにも諦めの悪い人間だったのか。
それとも諦めの悪い人間に、なってしまったのだろうか。
もしそうなら、それは間違いなく九龍の所為だ。
「次の仕事……決まったんだな」
「まぁ。うん」
九龍がいなくなる。
そんなこと、とうに覚悟していたつもりだった。
けれど今、突きつけられた現実を目の前にして、俺のしていた覚悟など何の効力も発揮してはくれなかった。
腹が立った。
ただどうしようもなく、腹が立った。
「……なるほどな。それで最後に俺と寝ようと思ったってわけか」
「……」
九龍は黙り込む。
それが俺を更に苛立たせた。
「冗談じゃないぜ」
俺は九龍を突き飛ばして、吐き捨てた。
「そんな餞別、くれてやる気はない」
「甲太郎……」
呆然としたような九龍の表情。
そして、一言。
「……ごめんな」
呟きながら、九龍はくしゃりと顔を歪ませた。
泣きだしそうにも、笑っているようにも見えた。
そうして九龍は部屋を出て行った。



**** 2nd day ***

九龍がどういうつもりであんなことを言い出したのか、 それを思うと腹が立って仕方が無かった。
別れの儀式を気取ったつもりだったのか、「これで思い残すことはない」とでも言いたかったのか。
もしそうだとしたら、馬鹿馬鹿しい限りだ。
二度と会えないわけでもないだろうに。
だが―――、二度と会えなくても不思議じゃないということも分かっていた。
あいつのやっていることは、子供の宝探しごっことは違う。
それはこの三ヶ月間で、よく分かった。
だからって、俺にもプライドってもんがある。
いきなりやって来て、好き放題引っ掻き回して、仕事が終わったからサヨウナラ。
挙句の果てに、あの誘いだ。
最初から最後まで主導権を握ろうだなんて、図々しいにも程がある。
なんでも自分の思い通りになると思うな。

そう心の中で毒突きながらも、俺は確かに焦っていたのだから滑稽だ。
いつ発つのかを聞かずに、部屋から追い出すような形になってしまったのが失敗だったか。
かと言って自分から突き放しておいて、今更どの面下げてそんなことを聞きに行ける?
そんなみっともない真似するぐらいなら、このまま別れてしまったほうがマシだ。
そう思った瞬間、もぬけの殻になった部屋の中で、呆然と立ち尽くす己の姿が脳裏を掠めた。
その方がいいのか。
このまま離れてしまえば、いつかはこの苦い想いも溶けて無くなる日が来るのか。
いい思い出だなどと、白々しいことを言える日が来るのか。
(―――考えても、無駄なことだ)
とうに火の消えたアロマに、もう一度火を灯そうとして止める。
一向に効果を発揮する気配のない、それを吸うのにもすっかり飽きた。
全てを投げ出し、漸く眠りに落ちることが出来たのは、夜も明け始めた頃だった。

カーテンの隙間から薄灰色の光が漏れている。
時刻を確認しようと枕元に置いてある携帯を取るだけでも酷く億劫で、 それがもう正午近くだと分かったときには更に憂鬱になった。
まるで一睡もしていないような倦怠感が、身体中に重く圧し掛かっている。
軋む身体を何とか動かしてベッドを降りる。
僅かにカーテンを開けると、外は今にも降り出しそうな曇天だった。
(……今の気分にぴったりだな)
くだらないことを考えながら、知らずに苦笑していた。
あいつはまだ、此処にいるのだろうか。
あのメールが来てから、ゆうに半日以上は経っている。
もう、いないかもしれない。
いないはずだ。
寧ろ、その方がいい。
だから俺はそのことを確かめる為だけに部屋を出た。

九龍の部屋の前に立つ。
しかし、ドアノブに掛けた指先はいつまでも動こうとしなかった。
自分の意気地の無さに思わず溜息を吐いた、その時。
「……何してんの?」
「!!!」
振り返った視線の先に、九龍が立っていた。
「き、九ちゃん、お前」
「もしかして荷造りの手伝いに来てくれたとか? だったら遅いよ〜。もう全部、終わっちゃったって」
「あ、いや」
言葉に詰まる俺に、九龍は何事も無かったかのような笑顔で話し掛けてくる。
いない方がいいと思っていたはずなのに、その姿を見て心底安堵している自分に気づいた。
(情けねぇ……)
自己嫌悪に陥りかけている俺の前で、九龍は部屋のドアを開ける。
「入る? もう何にもないけど」
「……!」
しかし部屋の中を見てすぐに、その安堵も一時凌ぎに過ぎないことを悟った。
あれほどあった訳の分からないぬいぐるみだの置物だのは、既に綺麗に片付けられている。
あるのはただ、初めから備え付けてあった家具類だけだ。
それは部屋の主が程無くして去るのだということを、まざまざと見せつけていた。
「……いつ、行くんだ」
「明日」
未来を表すその言葉が、これほど絶望的に聞こえたことはなかった。
今の時点で、《今日》はもう既に半分終わっている。
《明日》は、あまりにも近かった。
しかしベッドに腰掛けた九龍は、何食わぬ顔で笑っている。
俺も平静を装いながら、隣りに腰を下ろした。
「荷物、結構多くてびっくりだったよ。おまけに、かさばるものが多くてさぁ」
「……それは、俺のカレー鍋のことを言ってるのか?」
「あっ、いえ、まさか! あれは俺の宝物ですから」
「ふん。宝探し屋が、そんな簡単に『宝物だ』なんて言っていいのかよ」
「だって本当のことだし。じゃ、なんて言えばいい? 宝鍋?」
「アホか!」
言葉を交わしているうちに、さっきまで色々と考えていたのが馬鹿馬鹿しくなってきた。
こいつにとって此処を去ることは、たいしたことではないのだろう。
こんな別れは、これから幾度でもある。
出会って、別れて。
それは、俺にとっても同じことだ。
初めから分かっていたことじゃないか。
今更、じたばたしたってしょうがない。
昨夜の誘いだって、いつもの悪い冗談と流せばいいだけだ。
たいしたことじゃない。
たいしたことじゃ。
そう自分に言い聞かせ、俺は深く息を吸い込んだ。
「……九ちゃん、腹減ってないか?」
「ああ、そういえばそうだな」
「じゃあマミーズ行って、カレーでも食おうぜ」
九龍は笑いながら、オッケーと答えた。

外との温度差が激しかった所為か、店内は暖房が効き過ぎているように感じた。
毎度テンションの可笑しなウェイトレスが、俺たちの姿を見て跳ねるように寄ってくる。
「いらっしゃいませ〜。マミーズへようこそ! 何名様ですかぁ?」
「二人でーす」
「二名様ですね! こちらのお席へどうぞ〜」
いつもと同じ、マニュアル通りの対応。
窓際の席に案内され、カレーライスを二つ頼む。
「お二人とも、ほんっとーにカレー好きですねぇ〜」
「俺は普通なんだけど、甲太郎がなぁ」
「なんだよ。文句あるのか」
「だってこいつ、『飯食おうぜ』って言わないで『カレー食おうぜ』って言うんだよ? 俺に選ぶ余地は無いのかと」
九龍のくだらない話にケラケラと笑いながら、舞草は仕事に戻っていく。
その様子に、俺は違和感を覚えた。
まさか。
「……知らせてないのか?」
「え、なにが?」
「明日のことだ」
九龍が去ることを知っていれば、必ず何か言ってくるはずだろう。
しかし彼女は、何も知らないような態度だった。
「知らないよ。教えてないもん」
九龍は驚くほど平然と言ってのけた。
「どうして」
「どうしてって、その方がいいから」
「……」
納得出来ずに憮然としてる俺を見て、九龍は少し苛立ったような顔をする。
再びやってきた舞草が、おしぼりと水をテーブルの上に置いていった。
九龍はその水を一口飲んで、それから俺の目を見ずに言った。
「……知らせて、なんか聞かれたりしたら辛いんだよ」
「辛い?」
「そう……何処に行くの?とか、今度は何を探すの?とか、そりゃあ聞かれるとは限らないけど、 もしそういうこと聞かれても答えられないし、『答えられない』って答えるのがイヤなんだ」
牽制された気がした。
九龍にはそんなつもり無かったのかもしれない。
ましてや俺がそれを尋ねたかったのかどうかも分からない。
いずれにせよ、そういったことは聞いても無駄なのだということだけは分かった。
だが、それなら俺にも気づかせるべきじゃなかっただろう。
あのとき、こいつがあんなことを言い出しさえしなければ、俺だって問い詰めるまではしなかっただろうに。
(もしかして……わざとか?)
自分の考えに首を振る。
そんなはずがない。
あれはただ、九龍が間抜けだっただけだ。
「それに……」
まだ何か理由があるのか。
思考を止めて顔を上げると、九龍は頬杖を突いて窓の外を見ていた。
横顔が、ほんの少し笑っている。
「別れの言葉なんて、言いたくないからな」
「……」
俺だって聞きたくもないさ。
言い返したくなったが、口にはしなかった。

屋上へ続く重い扉を開けると、身を切るような冷たい風が吹きつけてきた。
「うわぁっ、さっみーーー!!!」
当たり前のことを盛大に叫ぶ姿は、阿呆にしか見えない。
「だから言っただろうが……」
「うん、寒い! 予想通りに寒い! いや、予想以上だ!!」
店を出た後、寮に戻るか尋ねると、何故か校舎の屋上へ行きたいと言う。
寒いから嫌だと拒否したものの、しつこく誘うので結局つきあうことになった。
いつも昼寝場所にしていた給水塔の辺りまで行く。
冬の日暮れは早い。
しかも今日は曇り空だ。
今は何時頃なのだろうと思いつつ、冷たいコンクリートに腰を下ろす。
「今日は夕陽、見られないか……残念」
突っ立ったままの九龍が呟いた。
ここから何度も夕陽を見た。
もちろん九龍と見たこともある。
それが今日見られないのは、俺にとってラッキーだった。
そんな感傷など欲しくはない。
俺はアロマに火をつけた。
「ここで初めて、甲太郎と会ったんだよなぁ」
「ああ……そういや、そうだったか」
「なあ、俺の第一印象ってどうだった?」
「あ?」
言われて、今までの《転校生》とは何処かが違う、と瞬時に感じたことを思い出す。
何処にでもいそうな、何のインパクトもない、普通の高校生に見えた九龍。
本当はそうでないのに、そう見せることも九龍の宝探し屋としての能力のひとつだったのだろう。
今までにやってきた《転校生》はいかにも胡散臭かった。
そんな奴にたいしたことが出来るはずもない。
だから俺は、九龍に予感めいたものを感じた。
こいつなら何かを成し遂げるのではないかと。
そして悪意も欲も無さそうなこいつを、《墓》の呪いから守ってやりたいとも思った。
誰かのことをそんな風に思ったのは、初めてのことだった。
気づくと、九龍が俺の返事に期待の眼差しを向けている。
本当のことなど、言ってやるつもりはなかった。
「そうだな……間抜けそうな奴だと」
「おいコラ、ちょっと待て」
「正直に答えたまでだ」
「はいはい、そうですか。どうせ俺は間抜け面だよ」
「……だから、良かったんだろ」
「ん?」
「なんでもない」
お前がいなくなってからも、俺は一人でこの場所にやって来るだろう。
お前と出会ったこと、お前と夕陽を眺めたこと、お前の姿を、お前の声を、俺は何度でも思い出すはずだ。
他愛の無い会話と笑い。
薄暗い《墓》の下を、彷徨い歩いた夜。
罪の意識に苛まれながらも、お前に惹かれていったこと。
そうやってお前と過ごした日々を、俺は決して忘れないだろう。
そして俺もいつかはこの場所を出て行く。
お前はそれが少し早かっただけ。
それだけのことだ。
白い息を吐きながら、俺たちは何もない空を長いこと見上げていた。

凍える体を抱えて、寮に戻る。
もう、何処にも行くところなどなかった。
「……明日、早いのか?」
九龍の部屋の前で足を止めて尋ねると、その表情が僅かに曇ったような気がした。
「うん、まあ……」
「そうか。じゃあ、早く休んだほうがいいな」
「……」
これ以上、一緒にいても仕方が無い。
何を尋ねることも、別れの言葉さえも言えないのなら、これ以上側にいるのは居た堪れなかった。
「……気をつけて、行ってこいよ」
じゃあな、と片手を挙げて背中を向ける。
これでいい。
こんな別れ方が俺達には合っている。
「―――!」
腕を掴まれた。
振り返ると、そこには初めて見る九龍の縋るような瞳があった。
「もう少し……一緒にいてくれないか……?」

冷え切った体を、エアコンの温風がゆっくりと溶かしていく。
胃に流し込んだコーヒーの熱さが、体の内側に染み通っていくのが分かった。
俺の部屋に入ってから、会話は一度も無い。
奇妙な緊張感を持った沈黙だけが、二人の間を延々と流れていた。
隣りに座る九龍の横顔を盗み見る。
どうしてそんな顔をするのか分からない。
お前にとって、こんなのはたいしたことじゃないはずだろう?
なのに、どうしてそんな顔をする。
そんな、寂しそうな顔を。
「……甲太郎」
沈黙を破ったその声に、軽い震えが走った。
「……喋るな」
何も、言うな。
今、お前が何か言えば、俺は確実に均衡を失ってしまう。
けれど九龍は執拗に言葉を発してくる。
「ひとつだけ……どうしても言っておきたいことがあるんだ」
「何も聞きたくない。聞く必要も無い」
「頼むから、聞いてくれ。本当は迷ったけど……やっぱりこれだけはどうしても、お前に言っておきたい。 お前に必要なくても、俺にはそれが必要なんだ」
「……」
俺は頭を抱えた。
耳を塞いでしまえば良かったのかもしれないけれど、心のどこかでそれを聞きたいとも思っていた俺には出来なかった。
そこまでして九龍が俺に伝えたいこととは何なのか。
何も答えられない、別れの言葉も言いたくないはずの九龍が、俺に何を言いたいのか。
そして九龍は言葉のひとつひとつを、まるで子供にでも言い含めるかのように、ゆっくりと吐き出した。

「何処に居ても、何があっても、俺は、お前のことを想ってるから」

その時、俺の中で何かが切れた。
「お前は……ッ!」
九龍の胸倉を掴む。
人が漸く踏ん切りをつけたっていうのに、ここまできてまた俺を振り回すのか。
あの縋るような瞳を振り切れなかった俺の弱さに、お前はまたつけ込む気なのか。
「甲太郎、俺は」
「黙れ! そんなことに、なんの意味がある?!  お前はもうすぐここを去るんだ! 目の前にいないお前が、何処で何を考えていようと、俺の知ったことじゃない!」
「分かってる! それでも、俺は甲太郎に知っていて欲しかったんだ! 信じて欲しかったんだ!」
「……ふざけるな!!」
信じる、だと? 感情こそが最も移ろいやすく、最も当てにならないものじゃないのか。
そんなものをどうやって信じればいい。
確かめる術も無いものを、どうやって。
「クソッ……!」
俺は九龍を突き放した。
どうしたらいいのか分からない。
どうして俺はこんなにもお前に執着しているんだ。
本当はお前と離れることが不安で堪らない。
まるで母親を見失った子供のように、俺はお前がいなくなることに怯えている。
こんな醜態、お前には見せたくなかったというのに。
「甲太郎……」
九龍の手が伸びてきて、俺の髪に触れた。
「俺はお前を信じてるよ」
「……だから、俺にも信じろって言うのか?」
「ダメかな」
「随分と傲慢な言い草だ」
「そうだな……。それでも、やっぱり、俺はお前に信じて欲しいよ」
「……」
そのまま首筋を引き寄せられる。
そしてほとんど頬と頬が重なるほどの距離で、九龍が呟いた。
「だって、それがお前に出来る……たったひとつの俺の約束だから」
約束。
俺はそのとき、漸く気づいた。
俺はそれが欲しかったのだと。
なんの拘束力もない、ただの言葉。
不確かで、形に残ることもない、 そんなものを欲してしまうほどに、俺は九龍を必要としていた。

人の想いほど脆く、強いものは無いと知った。
それが持つ力の大きさを知った。
ならば今、九龍が口にした約束ほど、信じられるものは無いのかもしれない。
また会おうなどという、いつ果たされるか分からない約束よりは、ずっといい。
ずっと、信じられる。

荒れ狂う波のようだった感情が、ゆっくりと凪いでいく。
結局、俺はお前には勝てないのか。
俺は九龍の耳元に、呟きを返した。
「言い逃げ出来るなんて……思ってないだろうな……?」
小さく笑う九龍を抱き締めて、唇を重ねる。
俺はその夜、九龍を抱いた。



*** Last day ***

メールの着信を告げる耳障りな音で起こされたのは、その日もやっぱり昼を過ぎた頃だった。
ただ昨日と違っていたのは、カーテンの隙間から漏れていたのが眩しい光だったこと。
夜中に微かな雨音を聞いた気もするが、今はもうその名残さえ感じられなかった。
けれど体のだるさは相変わらずで、俺は溜息を吐きながらベッドの上で携帯を操作し、届いたばかりのメールを開いた。
差出人の欄に表示されている名前を見た瞬間、一気に憂鬱が深くなる。
『まさか』という件名で届いたそのメールを読むうちに、 俺は九龍が本当にこの學園から居なくなったことを実感していった。

メールは八千穂からだった。
今朝、九龍にメールを送ったのだが、何度やっても戻ってきてしまうという。
嫌な予感がして電話を掛けてみたものの、その番号は既に解約されているらしい。
それだけでもう充分に、九龍に何が起きたのかは分かっているはずだった。
ただそれを認めたくない、信じたくない。
文面からは、そんな八千穂の想いが伝わってきた。
それでも、真実はひとつだ。
その場凌ぎで誤魔化せるような事態じゃない。
俺は一言、事実だけを書いたメールを返した。
それからアドレス帳に載っている、九龍の情報を開く。
そこに並んでいるものは既に、無意味な記号と数字の羅列でしかなかった。
俺は迷い無くそれを削除して、それきり携帯の電源を切った。
知らせはすぐに広まるだろう。
どうせそのうち誰かが、この部屋までやって来るに違いない。
そして知っていたのなら何故教えてくれなかったんだと、俺に詰め寄るだろう。
俺を責めるなど御門違いの話ではあるが、そうなることは目に見えていた。
だから俺は早急に、この場所から避難する必要があった。

屋上の特等席に座り、アロマに火をつける。
頭上の青空は、間抜けなほどに高くて広い。
まったく、馬鹿馬鹿しいほどの快晴だ。
昨日はこの場所に、あいつと二人でいた。
けれど今はもういない。
どこかで同じ空を見上げているかもしれないが、それを確かめる術は無かった。

明け方近く、九龍が出て行くのを浅い眠りの中で感じていた。
小さく聞こえた「行って来ます」という声、あれは夢だったのかもしれない。
あっという間だった。
あっという間に、あいつはいなくなってしまった。
あいつが確かにここにいたのだと示せるものは、もう何もない。
今はまだ残る腕の中の感触も、すぐに薄れて消えていくだろう。
俺だけに見せた表情も、声も、時間と共に記憶の中から流れていく。

空っぽだ、と思った。
今までもずっと空虚だった。
けれど頑なに閉じていた扉の奥には、淀んだ醜い何かが渦を巻いていたのだろう。
扉を開けたのは《宝探し屋》。
そして今、俺の中にはただ風が吹き抜けている。
その風が何処か心地よい。
空っぽなのに満たされている、不思議な感覚だ。
そんな風に感じたことは、この學園に来てから―――いや、それよりもずっと以前から、 一度だってなかった。

青空が目に沁みる。
まるであいつのような、能天気な空。
その空を見上げながら、俺はあいつの言葉を思い出していた。

―――何処に居ても、何があっても、俺は、お前のことを想ってるから。

残された、たったひとつの約束はあいつだけのものじゃない。
だから俺は、空に向かって呟いた。
「……言い逃げ出来るなんて……思ってないだろうな……?」
俺はあいつの傲慢を許しちゃいない。
勝手にやってきて、勝手に引っ掻き回して、挙句あんな約束ひとつで俺を待たせようっていうんだからな。

だから許してほしけりゃ、ちゃんと戻ってこい。
遠足は家に着くまでが遠足だ、って言うだろう?
お前が本物の《宝探し屋》なら、それぐらい出来るはずだ。
もしも戻ってこなかったら……そのときは、覚悟しておけよ。

そんなことを思いながら、あてつけのように空に向けてアロマを吹かした。
このラベンダーの香りが、何処にいるかも分からないあいつのところまで届くようにと。

- end -

2005.11.14


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